中華民国・現代
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民国期は長期にわたる政情の不安定と戦乱の中、国力の回復に努力する一方、文教政策にも力を注ぎ、文字資料の更なる出土を得て、その学術研究が進展した。現代の書法と清代の書法との差異は、清末以降に出土された木簡などの文字資料の研究の影響が大きい。この研究書として羅振玉・王国維などが重要な著録を残している。 清代は金石学が勃興して篆隷が盛んに書かれたが、当時の書人は木簡の隷書を知らない。碑は儀礼的なもので、結体・用筆ともに整理されて、当時の実用の字とはかなり性質が違う。これに対し木簡は日常生活の中でメモをとったり手紙を書いたりと、紙がなかった時代に紙の代用としての役割を果たしたため自然に字を書いている。しかも肉筆のため、いままさにこれを書いたというような視覚的な効果があり、碑の隷書と木簡の隷書とは感覚的にその本質が違う。そして、この木簡の率意の書は今日の書道観における書の理想に一致していると青山杉雨はいう。その書の理想とは、「生々しい視覚性と書者の人間性との兼ね合いによって生み出される鮮やかな表現である。」とし、「木簡こそまさに今日の我々の書道観を充足させてくれる資料であるということができよう。」と述べている。 1973年、馬王堆帛書の発見があったが、これも非常に自然に書いてあり、その運筆は軽妙で速度がある。西川寧は、「スイスイ書いてある。」と表現しているが、篆書を行書を書くくらいのスピードで非常に巧みに書いている。これについて今井凌雪は、「この一群の篆書から我々の今の篆書の書き方を反省できるし、また楷・行・草というより動的な書体の生まれる必然性を強く感じる。」と述べている。 清末以降に出土された文字資料は、前漢初期から200年間の肉筆の文字が20万字にも及ぶ。いままでこの200年間の文字資料が非常に少なく、特に前漢初期のものがなかった。しかも、この200年間にいろいろな書体が生まれているということが分かっていたため、ちょうどその時期の大量の文字資料の発見は考古的な価値はもちろんのこと、書法上でも非常に大きな貢献をした。その中で当時実用に書かれている書は隷書だけでなく、その略字としての章草も書かれているという事実があり、その起源が理解しにくかった草書の研究に関心を集め、以後の書体研究盛行の発端となった。 殷虚書契 『殷虚書契』(いんきょしょけい)前編8巻(1913年)・後編2巻(1916年)・続編6巻(1933年)は、羅振玉編。羅振玉所蔵の甲骨文の影印本。前編に2000余片、後編に1000余片を集編。続編には他家所蔵のものを含む。 殷虚書契考釈 『殷虚書契考釈』(いんきょしょけいこうしゃく)3巻は、羅振玉撰。1914年に出版し、1927年に増訂され、3巻となった。『殷虚書契』の甲骨文を8編に分けて考釈したもの。 殷虚書契菁華 『殷虚書契菁華』(いんきょしょけいせいか、『殷虚書契精華』とも)1巻は、1914年、羅振玉編。羅振玉所蔵の甲骨文の中で破損しやすく墨拓したことのない最大サイズの甲骨8片と小骨60片の影印本。 流沙墜簡 『流沙墜簡』(りゅうさついかん)3巻・補遺1巻は、1914年、羅振玉・王国維共撰。羅振玉と王国維が日本に亡命中に出版した敦煌文献の研究書。敦煌文献の写真から588片の図版を撰んで各々に考釈を加えた。内容は第1巻が小学・術数・方技書、第2巻が屯戍叢編、第3巻が簡片で、その他に尼雅木簡、西域長史李柏文書などを補遺として付録している。
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