三条暫定内閣と第1次山縣内閣
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「山縣有朋」の記事における「三条暫定内閣と第1次山縣内閣」の解説
帰国後の黒田内閣は大隈外相の条約改正交渉を巡って紛糾していた。 黒田首相と大隈外相は山縣の支持を求め、一方で条約改正交渉反対派の閣僚西郷従道や松方正義といった薩摩の有力者は、黒田を辞任させて山縣を後継総理とすることで収拾を図ろうとしていた。山縣は条約改正交渉の中止に賛同し、黒田に延期を求めた。10月22日、黒田は山縣とともに大隈をのぞいた閣僚の辞表を提出した。黒田とその他の閣僚は後継首相として山縣を推薦していたが、山縣は受けなかった。やむなく明治天皇は内大臣三条実美に内閣総理大臣を兼任させた。黒田に引導を渡すことになった山縣であったが、黒田の体面を尊重した対応をとったため、その心象はかえってよいものとなった。明治22年(1889年)12月24日には三条が内閣総理大臣兼任を辞しているが、同日に内閣職権が廃され、首相の権力を弱めた内閣官制が導入されている。明治22年(1889年)12月24日、内閣総理大臣(第3代)に就任(第1次山縣内閣)した。特に功労が大きいという明治天皇の特旨により、山縣は現役軍人であり続けることを許された。 明治23年(1890年)6月7日には、西郷隆盛以来となる陸軍大将に昇進している。7月1日に第1回衆議院議員総選挙を迎え、11月29日に開会した日本最初の帝国議会に臨んだ。超然主義をとり軍備拡張を進め、第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。対する野党・民党の立憲自由党、立憲改進党は激しく反発し、予算案の歳入を一部削る修正案を衆議院で作成、内閣も対抗措置として自由党議員の買収工作を行ったり、民党と関係が深い陸奥宗光農商務大臣を通して自由党との妥協を探り合ったりしている。結果、自由党内部から板垣退助を擁立する一派(土佐派)が政府の妥協を宣言、最初の帝国議会を円満に閉会させたい議員全体の意向もあり、予算案削減額はあまり変わらなかったものの、明治24年(1891年)3月2日に衆議院で予算が成立した。貴族院も軍から政治に場所を移し山縣との対立を継続した谷ら四将軍派などの反抗はあったが、4日後の6日に予算案は通過、8日に議会が無事閉会式を迎えたあと、5月6日に山縣は首相を辞任した。首相在任は1年5か月と短かったが、無事に第一回帝国議会を終わらせたことで山縣は政治家として名を上げ、伊藤に匹敵する藩閥実力者としての地位を確立した。第1次内閣の他の功績は府県郡制公布、明治23年10月30日に部下の芳川顕正文部大臣や井上毅法制局長官と協力した教育勅語発布が挙げられる。 後継には伊藤を推薦したが、薩摩閥に配慮した伊藤は受けず、松方が首相となる第1次松方内閣と交代した。 松方内閣では品川弥二郎内務大臣の後ろ盾となり、その選挙干渉政策を支持した。しかしこれは議会や政党に対する考えが異なる伊藤との溝を深めることとなった。 明治25年(1892年)7月に松方内閣が倒れると天皇から善後処置を伊藤や黒田清隆とともに下問された。これ以降、天皇が後継首相を重臣に下問する慣例が始まり、後に元老と呼ばれる制度となる。協議の末8月に第2次伊藤内閣が成立した。山縣は司法大臣として入閣したが、翌明治26年(1893年)3月10日に辞職、即日枢密院議長へ転任した。井上馨は病気を口実として内務大臣を辞任し、後任に山縣をつけて伊藤との関係を取り持とうとしたが、山縣は拒絶している。
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