三条殿襲撃とは? わかりやすく解説

三条殿襲撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)

平治の乱」の記事における「三条殿襲撃」の解説

12月9日深夜藤原信頼信頼同心した武将らの軍勢院御所三条殿襲撃する信頼らは後白河上皇上西門院後白河同母姉)の身柄確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人女房などが犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡していた。信頼らは後白河上西門院二条天皇が居る内裏内の一本御書所移して軟禁状態にした(ただし、『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼一本御書所後白河擁したとも解される記述をしている)。後白河乗せる車は源師仲用意し源重成源光基源季実護送した源光基美福門院家人源光保の甥であり、京都治安を預かる検非違使別当藤原惟方であることから、クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され22日全員配流決定した13日信西山城国田原逃れ土中埋めた箱の中に隠れたが、発見され掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した。光保は信西首を切って京都戻り、首は大路渡され獄門晒された。 信西自害した翌日14日内裏二条天皇後白河上皇確保して政権掌握した信頼は、臨時除目行った。この除目源義朝播磨守嫡子頼朝右兵衛となった。『平治物語』は信頼近衛大将になったとするが、『愚管抄』にその話は見えない藤原伊通はこの除目について「人を多く殺した者が官位を得るなら、なぜ三条殿井戸官位やらないのか(先の襲撃多くの者が火を避けて飛び込んだ)」と皮肉ったという。信頼政権奪取には大半貴族反感抱いていたが、二条親政派も義朝武力背景とした信頼独断専行見て密かに離反機会窺っていた。その最中東国より兵を率いて馳せ上った源義平直ち清盛帰路討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退けた信頼してみれば嫡男信親清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。

※この「三条殿襲撃」の解説は、「平治の乱」の解説の一部です。
「三条殿襲撃」を含む「平治の乱」の記事については、「平治の乱」の概要を参照ください。

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