六波羅合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:23 UTC 版)
郁芳門では義朝と平頼盛が激戦し、頼盛は突破できず兵を退いた。源氏軍は内裏を出て平家軍を追撃する。ところが、これは計略であった。平教盛の別動隊が内裏に迫るや内応者が門を開けて引き入れ、内裏は平家方に占拠されてしまった。 退路を失った義朝は清盛の本拠・六波羅への総攻撃を決め,源氏勢が六波羅へ馳せ向かっていると、六条河原あたりで源頼政(義朝とは別系統の摂津源氏)の300騎が戦うこともなく布陣していた。これを見た義平は「さては我らが負ければ平家に味方しようとしているのだな。憎いやつだ。蹴散らしてしまえ」と同じ源氏の頼政の軍勢に攻め込んでしまった。いきなり攻撃されるとは思っていなかった頼政の軍は蹴散らされるが、頼政は形勢はうかがっていたが必ずしも平家に付こうとも考えていなかったのに、結果的に平家方に追いやることになってしまった。義平に好意的な『平治物語』の作者も「若気の至りであろう」と評し、楚の項羽がいたずらに中立者だった王陵を攻撃して漢の高祖(劉邦)に付かせてしまった故事を引いている。 義平は坂東武者を率いて六波羅へ攻め寄せた。清盛も黒一色の武具鎧に黒馬に乗って出陣。すると「悪源太義平見参」と一挙に突きかかり、平家も主人を討たせてなるかと源氏を押し包み乱戦となるが、源氏は朝から戦い通しなのに対して、平家は次から次へと新手を繰り出しており、疲弊しきった源氏は遂に敗走した。 なお、戦闘に関しての史実上の見解は次のとおりである。 『愚管抄』によると、義朝は内裏ではあまり戦わずにすぐ六波羅を目指した。また、頼政の裏切りについて、源頼政が参戦していたとするならば、それは元々美福門院に従っている立場に基づき信頼に一時同心しただけであるので、二条天皇が不在となったその時点では自らの意思で信頼陣営から抜け出したと見るべきだとされている。ちなみに古態本『平治物語』には六波羅襲撃をおこなった時点での義朝軍は20騎ほどしか残っていなかったと記載されている。
※この「六波羅合戦」の解説は、「源義平」の解説の一部です。
「六波羅合戦」を含む「源義平」の記事については、「源義平」の概要を参照ください。
六波羅合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)
信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実、信西を追捕した源光保らの混成軍であった。義朝配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、山内首藤氏は源氏譜代の家人であり、いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回は反乱のための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だったと推測される。 清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。『平治物語』では重盛と義平が待賢門で一騎討ちを繰り広げ、御所の右近の橘・左近の桜の間を7度も義平が重盛を追い回した、頼盛が退却中に敵に追いつかれそうになり重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した、という逸話が出てくるがこれらは話を盛り上げるための創作と思われる。このとき陽明門を警護していた源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒のため信頼に協力していたに過ぎなかった。また『平治物語』は源頼政が味方につかなかったとするが、もともと頼政も美福門院の家人であり信頼・義朝に従属する立場ではなかった。平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退する。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。
※この「六波羅合戦」の解説は、「平治の乱」の解説の一部です。
「六波羅合戦」を含む「平治の乱」の記事については、「平治の乱」の概要を参照ください。
- 六波羅合戦のページへのリンク