六波羅探題南方
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正安4年(1302年)7月、六波羅探題南方に就任し、7月7日に1000余騎を率いて鎌倉を出立し7月26日に入洛した。8月11日には中務大輔に転任する。嘉元元年(1303年)に探題北方が北条基時から北条時範に交代すると、事実上の執権探題として京都の政務を仕切った。嘉元2年(1304年)6月2日に越後守に転任する。 在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により時範と共に弔問に訪れたりして後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど文化的活動を精力的に行なっている。 だが嘉元3年(1305年)4月22日、鎌倉にて、連署で貞顕の舅に当たる北条時村が貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人により討たれる嘉元の乱が起こる。六波羅探題への第一報では「時村が誅された」とあり、二月騒動を連想した貞顕の居る六波羅探題南方では北方からの攻撃を恐れて戦々恐々であったとされ、貞顕の祐筆であった倉栖兼雄によると南方は「恐怖の腸、肝を焼き候き」であったという。だが5月に時村の誅伐は北条宗方の陰謀であったとする「関東御教書」が早馬により届き、時村を殺した宗方らが殺害されて貞顕には連座が及ばず無罪とされた。 徳治2年(1307年)1月29日に正五位下に昇進する。だがこの昇進に対して北条一門から異論が出されるなどしている。また8月14日に北方の時範が死去して探題北方が不在となったため、しばらくは南方の貞顕が単独で京都の政務を担当することになった。 延慶元年(1308年)12月、大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任。延慶2年(1309年)1月に鎌倉へ帰還した。
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