六波羅探題南方とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 六波羅探題南方の意味・解説 

六波羅探題南方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)

北条貞顕」の記事における「六波羅探題南方」の解説

正安4年1302年7月、六波羅探題南方に就任し7月7日1000余騎を率いて鎌倉出立し7月26日入洛した。8月11日には中務大輔転任する。嘉元元年1303年)に探題北方北条基時から北条時範交代すると、事実上執権探題として京都政務仕切った嘉元2年1304年6月2日越後守転任する。 在京時代には叔父鎮西探題であった北条実政死去したため金沢一門訃報伝えたり、後深草院崩御により時範と共に弔問訪れたりして後伏見上皇より勅語授かったりしている。また多く公家僧侶交遊して書写活動を行うなど文化的活動精力的に行なっている。 だが嘉元3年1305年4月22日鎌倉にて、連署で貞顕の舅に当たる北条時村が貞時の仰せ」とする得宗被官御家人により討たれる嘉元の乱が起こる。六波羅探題への第一報では「時村が誅された」とあり、二月騒動連想した貞顕の居る六波羅探題南方では北方からの攻撃恐れて戦々恐々であったとされ、貞顕の祐筆であった兼雄によると南方は「恐怖の腸、肝を焼き候き」であったという。だが5月時村誅伐北条宗方陰謀であったとする「関東御教書」が早馬により届き時村殺した宗方らが殺害されて貞顕に連座及ばず無罪とされた。 徳治2年1307年1月29日正五位下昇進する。だがこの昇進に対して北条一門から異論出されるなどしている。また8月14日北方の時範が死去して探題北方不在となったため、しばらくは南方の貞顕が単独京都政務担当することになった延慶元年1308年12月大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任延慶2年1309年1月鎌倉帰還した

※この「六波羅探題南方」の解説は、「北条貞顕」の解説の一部です。
「六波羅探題南方」を含む「北条貞顕」の記事については、「北条貞顕」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「六波羅探題南方」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「六波羅探題南方」の関連用語

六波羅探題南方のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



六波羅探題南方のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北条貞顕 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS