三条朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:31 UTC 版)
同年10月に三条天皇の即位式が行われ行成は宣命使を務めたが、その際の進退の振る舞いが非常に見事であったと道長から賞賛を受けている。寛弘9年(1012年)2月に道長次女の藤原妍子が皇后に冊立され、皇太后・藤原遵子が太皇太后に転じるため、行成も太皇太后宮権大夫に遷った。しかし、翌3月になると三条天皇は先に入内して皇子女を儲けていた故大納言・藤原済時長女の藤原娍子を立后を強行しようとする。一帝二后は一条朝に続くものであったが、皇族・大臣以外の娘が立后した先例は平安時代初期の橘嘉智子(内舎人・橘清友の娘)以外になく、左大臣・藤原道長以下多くの廷臣がこれに納得しなかったらしい。かつて、一条天皇に一帝二后を進言した行成も同様で、娍子立后の儀には参加せず、同日に行われた妍子の内裏参入の儀のみに参加している。長和2年(1013年)石清水行幸行事賞として、かつて果たせなかった正二位への叙位を受けた。
※この「三条朝」の解説は、「藤原行成」の解説の一部です。
「三条朝」を含む「藤原行成」の記事については、「藤原行成」の概要を参照ください。
- 三条朝のページへのリンク