万博輸送に向けて
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「大阪市交通局30系電車」の記事における「万博輸送に向けて」の解説
1970年(昭和45年)3月14日(一般公開開始は翌15日)より180日間の日程で千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博 EXPO'70)が開催されることとなり、これに対応すべく大阪市は6路線で総延長64.2kmの新線建設を含む地下鉄網整備緊急5カ年計画を立案、日本国有鉄道(国鉄)大阪環状線内の地下鉄網の緊急整備と路面電車網の全廃、それに当時東海道新幹線との連絡駅である新大阪まで到達していた大阪市交通局高速電気軌道1号線を江坂まで延伸、そこから先を大阪府や阪急電鉄などが出資した第3セクターである北大阪急行電鉄が万国博中央口まで建設し、1号線と北大阪急行電鉄の間で相互乗り入れ運転とすることで万博会場へのメインアクセス機関とすることが決定された。 この際、大阪市交通局では新線建設に伴う車両の所要増を充足すべく新造車両の投入が実施されることとなった。 しかしながら、当時の1号線では開業以来の100形を筆頭とする吊り掛け駆動方式の17m級片開き3扉車が、5000形などの17m級両開き3扉WNドライブ車と混用されていた。混雑対策としては、開業当時に計画されていた通り増結に次ぐ増結で対処されていたものの、これも1964年9月の新大阪延長に伴う8両編成化で施設面からは計画の予定上限に達し、さらに朝および夕方ラッシュ時の運行間隔も、旧式の打子式ATSや各形式の加減速性能の相違などにより、最短2分15秒で頭打ちと既に輸送力の限界に到達しており、単純な新車の増備では想定される万博観客輸送に対応しきれないことが明白であった。 ここで当時の大阪市交通局局長であった、今岡鶴吉は1967年(昭和42年)12月に一つの決断を下した。それは、『最新(1967年当時)のWS-ATCに対応する新型18m級4扉車を一挙に240両新造して1号線へ集中投入し、予想される万博観客輸送に対応しよう』というものであった。 これにより、戦時中の酷使もあって老朽化が進行し故障頻度が増大していた、1号線在籍の1000形以前の吊り掛け駆動車の全車淘汰が可能となった。さらに車齢が若く充分な走行性能を備える1100形以降のWNドライブ車を、輸送密度の低い2号線以下の各線に全車転用することで、当時延伸計画が急ピッチで進められていたそれらの線区の車両需要が満たされ、しかもATC化された1号線で運用する車両を、すべて収容力の大きく扉数も多い新型車両で統一することで、運行間隔の短縮と運用の効率化を実現して、必要となる車両の総数を当初計画より大きく削減しつつ実質的な輸送力の増大を図ることが可能となった。 この計画に基づき、2号線(谷町線)と4号線(中央線)に新製投入されていた7000・8000形を基本設計としつつ、その後の運用実績を踏まえて改設計を行った上で製造されたのが本系列である(7000・8000形は改造・中間車増結して改番編入)。 本系列は2・4号線から転属となった7000・8000形からの編入車18両を含め、8両編成28本分で合計224両が製造され、これに加え同一設計であった北大阪急行電鉄の7000形ステンレス車40両、8000形 (初代) アルミ車16両の8両編成7本分で合計56両の製造分を合わせ8両編成35本280両がそろい、万博開幕に備えた。
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