ロンドン 1764年4月-1765年7月
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「モーツァルト家の大旅行」の記事における「ロンドン 1764年4月-1765年7月」の解説
モーツァルト家がロンドンで初めに借りた宿は、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会に程近いセシル・コート(英語版)の床屋の上の階であった。パリから送られた紹介状の効果はてき面で、子どもたちは到着から4日後の4月27日には国王ジョージ3世とドイツから嫁いだ19歳の王妃シャーロットの御前で演奏を行っている。2度目の王室の婚約式が5月19日に予定されており、ヴォルフガングはそこで王のためにヘンデル、J.C.バッハ、アーベルらの作品を演奏するよう頼まれた。彼は王妃がアリアを歌う際に伴奏をすることを許され、その後ヘンデルのアリアの通奏低音を基に即興演奏を披露した。レオポルトによれば、ヴォルフガングは「誰もが驚くような最上の美しさを持った旋律」を紡ぎ出したという。 多くの貴族や上流階級の面々は夏の間ロンドンから離れていたが、レオポルトは7月4日の王の生誕祭には大半が戻ってくると計算し、それに基づき同5日に演奏会を開く手はずを整えた。これは成功したものと思われ、レオポルトはヴォルフガングが7月29日にラニラ・ガーデンズ(英語版)の助産院で行われる慈善演奏会に出演できるよう、急ぎ手配を行った。レオポルトがこうして慈善活動の支援に労力を割いたことは、明らかに「この非常に特別な国から愛を得る手段」と考えてのことだった。ヴォルフガングに関する宣伝にはこうある。「(略)名高く驚くべき巨匠モーツァルト、7歳の子ども(略)」(彼の実年齢は8歳であった)「あらゆる世代の中でも最も抜きん出た神童、最も驚くべき天才として尊重されるのも当然のこと。」7月8日にはサネット伯爵のグロヴナー・スクエア(英語版)の邸宅で私的な演奏会が行われたが、ここからの帰りにレオポルトは喉の炎症に加えて他にも憂慮すべき症状を呈していた。「最も悲しい出来事のひとつを聞く、心の準備をして欲しい。」彼はハーゲナウアーに、自分が間もなく死去するのではないかという予感を手紙で伝えている。彼は数週間にわたって病に倒れ、一家はレオポルトの健康ためにセシル・コートの仮住まいを後にして、当時はチェルシーの村落の一角であったと思われるエバリー・ストリート(英語版)の田舎の一軒家に移った。 レオポルトが回復しないうちは演奏を行うことが出来ず、ヴォルフガングは作曲を始めることになった。作家で音楽家のジェーン・グラヴァーによれば、ヴォルフガングはJ.C.バッハとの出会いに触発されて交響曲を作曲することにしたのだという。この出会いがいつのことであったのか、またヴォルフガングがJ.C.バッハの交響曲を最初に聴いたのがいつであったのかは不明確である。しかしながら、ヴォルフガングが1764年5月に王宮での演奏会において彼のハープシコード曲を演奏していることがわかっている。まもなく『交響曲第1番』の作曲を終えたヴォルフガングは、続いて『交響曲第4番』の作曲に取り掛かる。ニ長調の第4交響曲は、ヒルデスハイマー(Hildesheimer)の言葉によると「旋律と転調の独自性は彼の(育ってきた)同時代の作曲家らの定法を凌駕している。」これらがヴォルフガングの最初の管弦楽作品であるが、ザスローはヴォルフガングの音楽帳から幻の『交響曲第0番』の存在を仮定している。モーツァルト作品に関するケッヘルの目録において同定済みの3曲の失われた交響曲は、最初の数小節が書かれているのみのものだが、これらもロンドン滞在記に書かれたものかもしれない。他にもロンドンにおいては数曲の器楽ソナタなどが作曲されており、その構想はヒルデスハイマーによれば『四手のためのピアノソナタ』K.19dに結実したとされる。フルートとチェロの追加パートを持つ『ヴァイオリンソナタ』K.10-15はシャーロット王妃の求めに応じて彼女に献呈された楽曲であるが、1765年1月と明記された上で贈呈された。また、ヴォルフガングは最初の声楽作品であるモテット『神はわれらが避難所』K.20とテノールのためのアリア『行け、怒りにかられて』K.21を作曲した。9月末になるとレオポルトが快復したため、一家は再びロンドンの中心部へと移りソーホーのスリフト・ストリート(後のフリス・ストリート)で間借りをして暮らした。この場所は複数のコンサートルームに近くて便利であったことに加え、J.C.バッハとアーベルも近所に住んでいた。大バッハの実子であるJ.C.バッハは、すぐに一家と親しく付き合うようになった。ナンネルは後に、バッハと8歳のヴォルフガングが一緒にソナタを弾いていた時のことを述懐している。2人は数小節ごとに入れ替わりながら演奏していたが、それは「その光景を見ていないものが聴いたとしたら、誰もがまるで1人の奏者が演奏しているように思ったことでしょう。」モーツァルト一家がアーベルに会ったという記録は残っていないが、ヴォルフガングは彼の交響曲を知っていた。それはおそらく毎年開催されていたバッハ=アーベルのコンサート・シリーズを通じてのことであり、彼らから大きな影響を受けていたのである。 10月25日、子どもたちは国王からの招きを受けて、国王の即位4周年を祝う席で演奏を披露した。彼らが次に公に姿を見せるのは1765年2月21日であるが、バッハ=アーベルの演奏会と同日開催になったために客の入りはほどほどであった。ロンドンでの演奏会はあと1度、5月13日のものだけであったが、4月から6月までの間は聴衆が一家の住む家を訪れて5シリングを支払うと、ヴォルフガングが自らの十八番を演奏していた。6月の間は2人の「神童たち」が共に、毎日コーンヒル(英語版)のスワン・アンド・ハープというパブで演奏を披露したが、この時の料金はわずか2シリングと6ペンスであった。セイディーの見立てでは、こうした活動は「レオポルトがイングランドの聴衆からギニーを搾り取ろうとする、最後の必死の努力」であった。ヒルデスハイマーは旅のこの箇所をサーカス団の巡業になぞらえ、モーツァルト家とサーカス一座の一家を比較している。 モーツァルト一家は1765年7月24日に大陸へ向かってロンドンを後にした。レオポルトはこの前にデイネス・バリントン(英語版)閣下による科学実験の被験者として、ヴォルフガングを差し出すことを許可している。1770年のフィロソフィカル・トランザクションズ誌に発表された報告は、ヴォルフガングの並外れた能力が本物であることを確認する内容となっている。事実上、一家がロンドンで最後に行った活動は、『神はわれらが避難所』の手稿譜の写しを大英博物館に寄贈したことであった。
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