ロンドン 1764年4月-1765年7月とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ロンドン 1764年4月-1765年7月の意味・解説 

ロンドン 1764年4月-1765年7月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 17:32 UTC 版)

モーツァルト家の大旅行」の記事における「ロンドン 1764年4月-1765年7月」の解説

モーツァルト家ロンドン初めに借りた宿は、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会程近いセシル・コート(英語版)の床屋の上の階であったパリから送られ紹介状効果はてき面で、子どもたち到着から4日後の4月27日には国王ジョージ3世ドイツから嫁いだ19歳王妃シャーロット御前演奏行っている。2度目王室婚約式5月19日予定されており、ヴォルフガングはそこで王のためにヘンデル、J.C.バッハアーベルらの作品演奏するよう頼まれた。彼は王妃アリアを歌う際に伴奏をすることを許されその後ヘンデルアリア通奏低音を基に即興演奏披露したレオポルトによればヴォルフガングは「誰もが驚くような最上の美しさ持った旋律」を紡ぎ出したという。 多く貴族上流階級面々は夏の間ロンドンから離れていたが、レオポルト7月4日の王の生誕祭には大半戻ってくると計算し、それに基づき5日演奏会を開く手はず整えた。これは成功したものと思われレオポルトヴォルフガング7月29日にラニラ・ガーデンズ(英語版)の助産院行われる慈善演奏会出演できるよう、急ぎ手配行ったレオポルトがこうして慈善活動の支援労力割いたことは、明らかに「この非常に特別な国から愛を得る手段」と考えてのことだった。ヴォルフガングに関する宣伝にはこうある。「(略)名高く驚くべき巨匠モーツァルト7歳の子ども(略)」(彼の実年齢8歳であった)「あらゆる世代中でも最も抜きん出た神童、最も驚くべき天才として尊重されるのも当然のこと。」7月8日にはサネット伯爵グロヴナー・スクエア英語版)の邸宅私的な演奏会が行われたが、ここから帰りレオポルトは喉の炎症加えて他にも憂慮すべき症状呈していた。「最も悲しい出来事のひとつを聞く心の準備をして欲しい。」彼はハーゲナウアーに、自分間もなく死去するではないかという予感手紙伝えている。彼は数週間わたって病に倒れ一家レオポルトの健康ためにセシル・コートの仮住まいを後にして、当時チェルシー村落一角であった思われるエバリー・ストリート(英語版)の田舎一軒家移ったレオポルト回復しないうちは演奏を行うことが出来ずヴォルフガング作曲始めることになった作家音楽家ジェーン・グラヴァーによればヴォルフガングはJ.C.バッハとの出会い触発され交響曲作曲することにしたのだという。この出会いがいつのことであったのか、またヴォルフガングがJ.C.バッハ交響曲最初に聴いたのがいつであったのかは不明確である。しかしながらヴォルフガング1764年5月王宮での演奏会において彼のハープシコード曲を演奏していることがわかっている。まもなく『交響曲第1番』の作曲終えたヴォルフガングは、続いて交響曲第4番』の作曲取り掛かるニ長調の第4交響曲は、ヒルデスハイマー(Hildesheimer)の言葉によると「旋律転調独自性彼の育ってきた)同時代作曲家らの定法凌駕している。」これらがヴォルフガング最初管弦楽作品であるが、ザスローはヴォルフガング音楽帳から幻の『交響曲第0番』の存在仮定している。モーツァルト作品に関するケッヘル目録において同定済みの3曲の失われた交響曲は、最初の数小節書かれているみのものだが、これらもロンドン滞在記に書かれたものかもしれない。他にもロンドンにおいては数曲の器楽ソナタなどが作曲されており、その構想はヒルデスハイマーによれば四手のためのピアノソナタ』K.19dに結実したとされるフルートチェロ追加パートを持つ『ヴァイオリンソナタ』K.10-15はシャーロット王妃求めに応じて女に献呈された楽曲であるが、1765年1月明記され上で贈呈された。また、ヴォルフガング最初声楽作品であるモテット『神はわれらが避難所』K.20とテノールのためのアリア行け、怒りにかられて』K.21を作曲した9月末になるとレオポルト快復したため、一家は再びロンドン中心部へと移りソーホーのスリフト・ストリート(後のフリス・ストリート)で間借りをして暮らした。この場所は複数のコンサートルームに近くて便利であったことに加え、J.C.バッハアーベル近所住んでいた。大バッハ実子であるJ.C.バッハは、すぐに一家親しく付き合うようになった。ナンネルは後に、バッハ8歳ヴォルフガング一緒にソナタ弾いていた時のことを述懐している。2人は数小節ごとに入れ替わりながら演奏していたが、それは「その光景見ていないものが聴いたとしたら、誰もがまるで1人奏者演奏しているように思ったことでしょう。」モーツァルト一家アーベル会ったという記録残っていないが、ヴォルフガング彼の交響曲知っていた。それはおそらく毎年開催されていたバッハアーベルのコンサート・シリーズを通じてのことであり、彼らから大きな影響受けていたのである10月25日子どもたち国王からの招き受けて国王即位4周年を祝う席で演奏披露した。彼らが次に公に姿を見せるのは1765年2月21日であるが、バッハアーベル演奏会同日開催になったために客の入りほどほどであったロンドンでの演奏会はあと1度5月13日のものだけであったが、4月から6月までの間は聴衆一家の住む家を訪れて5シリング支払うと、ヴォルフガングが自らの十八番演奏していた。6月の間は2人の「神童たち」が共に、毎日コーンヒル(英語版)のスワン・アンド・ハープというパブ演奏披露したが、この時の料金はわずか2シリングと6ペンスであったセイディー見立てでは、こうした活動は「レオポルトイングランド聴衆からギニー搾り取ろうとする、最後必死努力であった。ヒルデスハイマーは旅のこの箇所サーカス団巡業なぞらえモーツァルト家サーカス一座一家比較している。 モーツァルト一家1765年7月24日大陸へ向かってロンドンを後にした。レオポルトこの前にデイネス・バリントン(英語版閣下による科学実験被験者として、ヴォルフガング差し出すことを許可している。1770年フィロソフィカル・トランザクションズ誌に発表され報告は、ヴォルフガング並外れた能力本物であることを確認する内容となっている。事実上一家ロンドン最後に行った活動は、『神はわれらが避難所の手稿譜の写し大英博物館寄贈したことであった

※この「ロンドン 1764年4月-1765年7月」の解説は、「モーツァルト家の大旅行」の解説の一部です。
「ロンドン 1764年4月-1765年7月」を含む「モーツァルト家の大旅行」の記事については、「モーツァルト家の大旅行」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ロンドン 1764年4月-1765年7月」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロンドン 1764年4月-1765年7月」の関連用語

ロンドン 1764年4月-1765年7月のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロンドン 1764年4月-1765年7月のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのモーツァルト家の大旅行 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS