ユーザーユニオン事件
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ユーザーユニオン事件(ユーザーユニオンじけん)とは、日本の欠陥車被害者団体の示談交渉に絡む恐喝事件。
概要
1960年代後半に欠陥車に関する報道が出始めた時代を背景に1970年5月に欠陥車被害者団体「日本自動車ユーザーユニオン」(以下、ユーザーユニオン)が誕生[1]。「ユーザーユニオン」は欠陥車による被害者から相談を受けつつ、欠陥車であることの立証をするために自動車テストをして、欠陥車を生産した自動車メーカーに対応を迫っていた[2]。また、ユーザーユニオンは1968年2月に自動車事故を起こしたホンダ・N360の運転手への有罪判決について「事故はN360の欠陥が原因であり、運転手に過失はない」とする再審請求をしたり[注 1][3]、自動車死亡事故について遺族に自動車会社幹部らを「未必の故意」の殺人罪で刑事告訴させるなどしており[注 2][4]、大企業に対して戦闘的な団体として世間に知られていた。
1971年11月2日にユーザーユニオン幹部2人(二級整備士資格を持つ元日産自動車社員の専務理事とヤメ検の顧問弁護士安倍治夫)が恐喝未遂容疑で東京地検特捜部に逮捕された[5]。
捜査によって、以下の1971年3月から10月までの自動車メーカーとの示談交渉7件(メーカー5社、車種6種)について、恐喝罪や恐喝未遂罪として起訴された[6]。
- 本田技研工業に対して、軽乗用車N360の欠陥を理由に、被害者192人の分として16億円の支払いを要求(恐喝未遂)
- 同じく被害者の遺族に委任されて8000万円の喝取(恐喝既遂)
- トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)に対し、ダンプカーのトヨタDA110の欠陥を理由に、ダンプ業者7人に委任されて1200万円を喝取(恐喝既遂)
- トヨタ自動車販売に対し、乗用車のコロナマークⅡの欠陥を理由に、事故死者の遺族に委任されて、1億8000万円の要求(恐喝未遂)
- 日産自動車に対し、商業車のダットサンサニーバン(VB10)の欠陥を理由に、被害者から委任を受けて1500万円を要求(恐喝未遂)
- 日産ディーゼル販売(現・UDトラックス)に対し、ダンプカーのニッサンUDの欠陥を理由に、ダンプ業者3人に委任されて1億0354万円を要求(恐喝未遂)
- 日野自動車に対し、ダンプカーのKF700の欠陥を理由に、ダンプ業者の委任を受けて550万円を喝取(恐喝既遂)
捜査の過程において、示談交渉の際に「マスコミや国会で追及する」「次々と告訴や民事訴訟をする」「武装蜂起する」旨の言葉が出たこと、16億円事件では192人の分としていた被害者の委任状は64人分しか取っていなかったこと、スズキ系ディーラーから約1400万円の援助を受けていたことが明らかになった[7]。11月27日に2人は500万円の保釈金で保釈された[8]。
裁判
1977年8月12日に東京地裁は安倍に懲役3年(求刑:懲役4年)、専務理事に懲役2年(求刑:懲役3年)の実刑判決を言い渡した[9]。
被告は控訴し、1980年4月25日に東京高裁は8000万円事件については「欠陥車との確信のもとに事故被害者の早期救済を目指したもので、消費者としてできる限りの調査と裏付けを行えば、必ずしも穏当とはいえない言動でも社会通念上忍容の程度を超えておらず企業は受忍すべき」として「消費者の権利行使」を幅広くとらえて無罪としたものの他6事件については有罪を維持し、安倍に懲役2年(執行猶予4年)、専務理事に懲役1年6ヶ月(執行猶予4年)に減刑判決を言い渡した[10][11]。
被告人が上告するも、1987年1月23日に上告が棄却されて判決が確定した[11]。
余波
国会でユーザーユニオンの告発が取り扱われたことを通じ、軽自動車に速度制限(結果的に2000年まで高速道路では最高速度が80km/hに制限された)、車検制度が導入されることとなった[12][13]。
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 122.
- ^ 伊藤正孝 1993, pp. 124–125.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 117.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 135.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 14.
- ^ 伊藤正孝 1993, pp. 27–28.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 15・21・36・57.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 27.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 219.
- ^ 伊藤正孝 1993, p. 233.
- ^ a b “和製ラルフネーダーの日本自動車ユーザーユニオン顧問弁護士有罪”. 毎日新聞. (1987年1月24日)
- ^ 最高時速80キロに 欠陥者、国会で取り上げる『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月10日夕刊 3版 10面
- ^ 軽自動車にも車検 「なるべく早く実施」最高時速80キロに 欠陥者、国会で取り上げる『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月11日朝刊 12版 1面
参考文献
- 伊藤正孝『欠陥車と企業犯罪―ユーザーユニオン事件の背景』社会思想社(現代教養文庫)、1993年。ISBN 9784390114561。
関連項目
ユーザーユニオン事件
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「ホンダ・N360」の記事における「ユーザーユニオン事件」の解説
1969年以降、ラルフ・ネーダーが主導しアメリカで社会問題になっていた「欠陥車問題」に影響され、日本でも同様に欠陥車糾弾の動きが生じた。この種の動きを見せた団体に「日本自動車ユーザーユニオン」があり、当時のベストセラーカーであった「N360」に操縦安定性の面で重大な欠陥があると指摘。1970年、N360を運転中に死亡したドライバーの遺族が、未必の故意による殺人罪で本田宗一郎を東京地方検察庁に告訴した。 1970年11月20日には警察庁が運転上のミスとは断定できない7件のケースを取り上げ、運輸省に技術的な判断を求めるため資料を送付した。7件のケースは3人ないし4人が搭乗時、加速や下り坂に差し掛かった際に蛇行が生じて横転や車線から逸脱する事故であった(注:事故時の速度が明示されていないこと、タイヤが丸坊主であったケースなど欠陥以外の要素も伺える事故が含まれていた)。これに対して運輸省は「本田技研から提出された資料によれば欠陥はないようだ」との主張を繰り返した。 この事件に関して1973年の国会審議で日本共産党が質問中に示した数字として、1968年から1970年の3年間で、被害者362名(うち、死亡56名、重傷106名、軽傷137名、物損14件)というものがある。 これによるイメージダウンもあって、発売以来3年間日本国内販売首位を誇った「N360」の人気は下がり、1971年には後継モデルの「ライフ」が発売されたこともあって、1972年に販売を終えた。また、1969年4月に発表された普通乗用車の1300の生産計画にも影響が生じ、同車は当初よりも2ヶ月遅れて発売された。 捜査の結果、本田宗一郎は不起訴となった。また本田技研工業は法外な示談金を要求したユーザーユニオンを恐喝で告訴し1971年11月、ユーザーユニオン専務理事松田文雄、顧問弁護士安倍治夫の2名が恐喝未遂容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。裁判は最高裁まで争われたが、判決が確定したのは1987年1月で、実に15年もの年月を要した。 「ユーザーユニオン事件」も参照 同社はNシリーズの派生型である「Z」や、モデルチェンジ型である「ライフ」などで、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、「N360」で失ったものを取り戻すまでには至らず、当時の軽乗用車市場の縮小をも背景に、1974年には商用車のみを残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。 「N360」の開発に携わった中村良夫は、のちに、ユーザーユニオンの指摘した「ヨー特性にロール特性がからんだ不安定さ」を「N360」がもっていたことを否定していないが、技術鑑定人として委嘱された亘理厚(東京大学生産技術研究所教授。自動車の振動特性や操縦性の研究にいち早く取り組み、当時の日本における自動車技術の権威の一人であった)は、「当時の道路運送車両法が軽自動車の速度について60km/h程度を想定しており、100km/hを軽くオーバーするNのような自動車の出現を予知し、盛り込めていなかったことに問題がある」という主旨の指摘をおこなっている。 なお、1970年9月10日の衆議院運輸委員会でユーザーユニオンの告発が取り扱われ、運輸大臣は答弁の中で、軽自動車の最高時速を80km/hに制限すること、車検制度を導入する(当時は定期点検のみで運行が可能であった)ことに言及した。ユーザーユニオン問題が終結した後も、軽自動車には高速道路において最高速度80km/h規制が2000年9月まで続けられ、車検制度は継続された。
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