モデル・端野いせとは? わかりやすく解説

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モデル・端野いせ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:18 UTC 版)

岸壁の母」の記事における「モデル・端野いせ」の解説

流行歌映画岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ1899年9月15日 - 1981年7月1日)。 明治32年1899年9月15日石川県羽咋郡富来町現在の志賀町)に生まれ函館青函連絡船乗組みの夫、端野一人娘とともに居住していたが、昭和5年1930年)頃に夫と娘相次いで亡くし家主函館資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年1931年)に上京する。新二は立教大学中退し高等商船学校目指すが、軍人志し昭和19年1944年満洲国渡り関東軍石頭予備士官学校入学同年ソ連軍攻撃受けて中国牡丹江にて行方不明となる。 終戦後、いせは東京都大森居住しながら新二の生存復員信じて昭和25年1950年1月引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船入港する度に舞鶴岸壁に立つ。昭和29年1954年9月には厚生省死亡理由認定書発行され昭和31年には東京都知事昭和20年1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館保存)を発行しかしながら帰還待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後平成12年(2000年)8月のことであったソ連軍捕虜となりシベリア抑留、後に満州移され中国共産党八路軍従軍その後レントゲン技師助手として上海居住妻子もうけていた。新二は母が舞鶴待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由様々に推測され語られているがはっきりしない。新二を発見した慰霊墓参団のメンバー平成8年1996年以降3度会ったが、新二は「自分死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国拒んだという。旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭せきとう予備士官学校の第13期生で構成される石頭五・四会」会長斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君八月十三日夜陰乗じて戦車肉薄攻撃その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年2006年10月4日)。 端野いせ新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表昭和51年9月以降高齢と病のため、通院しながらも和裁続け生計をたてる。息子生存信じながらも昭和56年1981年7月1日午前3時55分に享年81死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院見舞った二葉百合子証言している。 平成12年2000年8月慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市生存していたことを確認京都新聞が新二の生存報道中国政府発行端野新二名義身分証明書確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。平成15年文藝春秋に「『岸壁の母49年目の新証言」が掲載

※この「モデル・端野いせ」の解説は、「岸壁の母」の解説の一部です。
「モデル・端野いせ」を含む「岸壁の母」の記事については、「岸壁の母」の概要を参照ください。

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