メンフィス勅令とその背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:10 UTC 版)
「ロゼッタ・ストーン」の記事における「メンフィス勅令とその背景」の解説
石柱が立てられたのはプトレマイオスが即位した後であり、彫られた碑文は新たな統治者を神聖な対象として崇拝する事をうたったものである。この勅令はメンフィスに集った聖職者たちの会議をもとに発布されている。この日はマケドニア暦でいう「4Xandicus」にあたり、エジプト暦では「18Meshir」、西暦では紀元前196年3月27日となる。この年はプトレマイオス5世が在位して9年目であり、同じ年に司祭をつとめた4人の聖職者の名で正式に認められた。アレクサンドロス大王からプトレマイオス5世までの5人の王に礼拝を行う司祭 (Aëtus son of Aëtus) を筆頭に、残りの3人の名も部分的に碑文から読み取ることができる。それぞれベレニケ2世(プトレマイオス3世の妻)、アルシノエ2世(プトレマイオス2世の姉であり妻)、アルシノエ3世に礼拝を行う者たちだった。しかし、もう一つの日付がギリシア語とヒエログリフの文章にあり、この日はプトレマイオスの即位を公式に祝う紀元前197年11月27日にあたる。デモティックによる碑文はこれと矛盾していて、勅令の日も祝日も3月になっている。なぜこのような食い違いが起こるのかは定かでないが、勅令が出されたのが紀元前196年のことであり、プトレマイオス王が再びエジプトを統べたことをふまえていることは確かである。 勅令が出されたのは、エジプトの歴史における混乱の時代だった。プトレマイオス4世と、その妻にして姉のアルシノエ3世の子であるプトレマイオス5世(紀元前204-181年に在位)は、両親が急死したために5歳で王となった。当時の史料によれば、両親はプトレマイオス4世の情婦であったアガトクレアの企み(陰謀)によって殺された。陰謀を企てた者たちはうまくプトレマイオス5世の後見人となりエジプトを支配したが、2年後にはトレポレモスが反乱を起こした事でそれも終わりを迎え、アガトクレアとその家族はアレクサンドリアで群衆の暴行を受けて殺された。一方でそのトレポレモスもメンフィス勅令の時代に大老役を務めたアリストメネスによって紀元前201年に後見人の立場を奪われている。 エジプト国外に及ぶほどの政治的権力はプトレマイオス朝の国内問題を悪化させた。マケドニア王ピリッポス5世はアンティオコス3世とエジプトが海外に持つ領土を分割する協定を結び、カリアとトラキアの島や都市を次々に占領していった。一方で紀元前198年のパニウムの戦いの結果、ユダヤをはじめとしたコイレ・シリアがプトレマイオス朝からセレウコス朝の領土となった。その間もエジプトの南ではプトレマイオス4世とその後継者の在位中に起こった反乱が長期化していた。若きプトレマイオス5世が12歳にしてメンフィスで正式に即位し(実質的には7年前に王となっていた)、メンフィス勅令が出された時には対外戦争も内乱も終息していなかった。 この柱は、支配している君主が聖職者層に税を減免した事を謝して寄贈された、いわゆる記念石柱に分類されるものでも後期に入る。ファラオたちは2000年以上にわたってこういった記念石柱を立てており、最も古いものは古王国時代にみられる。初期にはこういった勅令は王がみずから下していたが、メンフィス勅令は伝統的なエジプト文化を受け継ぐと称する聖職者の名で発布されている。プトレマイオス5世が銀と穀物とを神殿に寄贈したことや、ナイル川の水位が非常に上がった中で8年間も在位していたこと、農民達のために溢れる水をせき止めさせたことを勅令は記している。こうした特権の礼として、聖職者たちは王の誕生日や即位日を毎年祝うことや、エジプト全土で他の神々とともに王に仕えることを約束した。勅令は結論にかえて、プトレマイオス朝で用いられていた、「神の文字」(ヒエログリフ)、「文書の文字」(デモティック)、「ギリシア人の文字」で彫られたこの文書の写しを、全ての神殿に収めることを命じている。 聖職者の歓心を買っておくことはプトレマイオス朝の王たちにとり人心をうまく安定させ支配するためにきわめて重要だった。王が即位するメンフィスの高僧はとくに有力であり、この時代の宗教における権威的な存在として王国全土で影響力をもっていた。プトレマイオス朝の治世における行政の中心地であり、古代エジプトではアレクサンドリア以上の都であったメンフィスで勅令が公布されたことを考えると、若き王が高僧たちの積極的な支持を得ることに腐心していたのは明らかである。しかしアレクサンドロス大王の征服以来、エジプトはギリシア語の話者を抱えており、先行する2つ同様にこのメンフィス勅令も、読み書きのできる聖職者を介さなければ一般人には理解できない言葉が並んでいた。 この勅令に決定的な英訳がひとつとして存在しない理由として、3つの原文の違いがかなり細かいといった点や現在では古代の言語の理解がかなり進んでいる点が挙げられる。今日のすぐれた翻訳にはR.S.シンプソンによるデモティックをもとにしたものがあり、大英博物館のウェブサイト上で読むことができる。これと、「プトレマイオスの会堂」(1927年)におさめられているエドウィン・ベヴァンによる全訳とを比較する事が可能である。そして後者はギリシア語をもとにしたものだが、脚注のなかでヒエログリフ、デモティックの文章との相違について触れている。
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