メイヤー=グラハム時代
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「ワシントン・ポスト」の記事における「メイヤー=グラハム時代」の解説
1929年、金融家のユージン・メイヤーは、秘密裏に500万ドルでポスト紙の買収を提案したが、ネッド・マクレーンに断られた。1933年6月1日、メイヤーは連邦準備制度理事会 (FRB) 議長を退任した3週間後に、競売にかけられていたワシントン・ポスト・カンパニーを82万5千ドルで落札した。匿名で入札していたメイヤーは、他の入札者よりもはるかに高い200万ドルを入札のために用意していた。他の入札者の中には「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストもいた。ハーストは以前から、自身が経営するワシントンの新聞社を有利にするために、経営不振のポスト紙を買収して廃刊にしようと目論んでいた。 その後、メイヤーはポスト社の健全性と評判を回復させ、ハーストの新聞社にも勝利した。ハーストが保有していた『ワシントン・タイムズ』と『ワシントン・ヘラルド』は、1939年に合併して『ワシントン・タイムズ=ヘラルド』となった後、1954年にポスト社に買収され、ポスト紙に吸収された。合併後、題字には『ワシントン・ポスト・アンド・タイムズ=ヘラルド』(The Washington Post and Times-Herald) と書かれていたが、段々「アンド・タイムズ=ヘラルド」の表記が小さくなり、1973年には消滅した。この合併により、ポスト紙の競合紙は『ワシントン・スター』と『ワシントン・デイリー・ニュース(英語版)』の2紙のみとなり、両者は1972年に合併して『ワシントン・スター・ニュース』になった。 1946年、メイヤーが初代世界銀行グループ総裁に就任するに当たり、新聞の発行者の職を女壻のフィル・グラハムに継承させた。メイヤーは世銀総裁を半年で辞任し、ポスト社の会長となったが、発行者はフィル・グラハムのままとした。1948年に実質的な支配権をフィル・グラハムとその妻でユージン・メイヤーの娘のキャサリン・グラハム(1917-2001)に譲り、1959年のメイヤーの死後、フィル・グラハムが社長兼会長に就任した。フィル・グラハムは、ポスト紙を全国的な新聞に成長させ、ポスト社を他の新聞社やラジオ局、テレビ局を所有するまでに拡大させたが、1963年に自殺した。 1963年のフィル・グラハムの死後、ポスト社の経営権は妻のキャサリン・グラハムに引き継がれた。それまでに、アメリカの出版社でこのような高い地位に就いた女性はおらず、キャサリン・グラハムには手本となる人物がいなかった。また、多くの男性社員からは軽く見られることが多かった。キャサリン・グラハムは、自分の知識に対する自信のなさと不信感を回顧録に記している。キャサリン・グラハムは、ポスト紙の発行者を1969年から1979年まで務め、1973年から1991年まで社長を、1999年から亡くなる2001年まで会長を歴任した。 1971年6月15日、ポスト社は株式の一部を公開し、ニューヨーク証券取引所に上場した。1株あたり26ドルで129万4千株が公開された。グラハムがCEOとして在任した1991年の終わりには、1株あたり888ドルの価値を持つようになっていた。 グラハムはポスト社の事業を多角化し、1984年には4000万ドルで教育・研修会社のカプランを買収した。その20年後、カプラン社の収益は新聞を上回るようになり、2010年には会社全体の収入の60%以上がカプラン社からのものとなっていた。 グラハムは、ベン・ブラッドリーをポスト紙の編集長として雇った。ブラッドリー編集長の下で、若手記者のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、長期の取材により、1972年にワシントンのウォーターゲート複合施設(英語版)にあった民主党全国委員会のオフィスへの侵入事件の真相を解明していった。この記事は、最終的にリチャード・ニクソン大統領の辞任へとつながるウォーターゲート事件に発展し、1973年にピューリッツァー賞を受賞した。 1972年、ピューリッツァー賞を受賞した評論家、ウィリアム・マクファーソン(英語版)を初代編集長に迎え、「ブックワールド」というコーナーをスタートさせた。ジョナサン・ヤードリー(英語版)やマイケル・ディルダ(英語版)などの批評家が登場し、ディルダはポスト紙の批評家としてのキャリアを確立した。2009年、「ブック・ワールド」は、読者の大きな反発と抗議を受けて2月15日を最後に廃止された。 1975年、印刷工の労働組合がストライキ (1975–1976 Washington Post pressmen's strike) を起こした。ポスト社は他の印刷工を雇って発行を継続し、組合員は1976年2月に現場に復帰した。 1979年、キャサリンの息子のドナルド・E・グラハムが発行者の職を継承し、2000年まで務めた。 1995年、washingtonpost.comというドメイン名を取得した。同年、"Digital Ink"というオンラインニュースリポジトリを作ろうとして失敗し、翌年に閉鎖された。1996年6月に最初のウェブサイトが開設された。
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