マー・ワラー・アンナフル地方での戦闘
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「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「マー・ワラー・アンナフル地方での戦闘」の解説
ホラズム・シャー朝征服に参加したモンゴル軍の兵士の数は150,000人、あるいは200,000人程度だと考えられている。対するホラズム・シャー朝の兵数は400,000人を超えていたが、規律、君主に対する忠誠心、戦闘の経験などの素質は欠けていた。ホラズム・シャー朝の軍事力の中核であるテュルク系のカンクリ族はアラーウッディーン・ムハンマドの実母であるテルケン・ハトゥンに忠誠を誓い、ホラズム国内はアラーウッディーンとテルケン・ハトゥンによって二分された状態にあった。東洋学者ワシーリィ・バルトリド、ルネ・グルッセらはホラズム・シャー朝の軍隊には卓越した活躍を見せた人物が現れたが、組織と指揮の統一、軍隊の練度の高さがモンゴル軍を勝利に導いたと指摘している。 モンゴル軍の侵攻にあたってアラーウッディーンは各都市に戦力を分散し、防衛に徹した。アラーウッディーンが戦力を分散する戦略を採用した理由について、多数の将軍たちの主張を取り入れたとする説、占星術師の意見を採用したという説などがあり、ホラズム・シャー朝の遺臣ナサウィーはチンギスがアラーウッディーンとテルケン・ハトゥンの仲を裂くためにテルケン・ハトゥンの内通を疑わせる書簡をアラーウッディーンに受け取らせた逸話を記録している。東洋史学者の杉山正明は、アラーウッディーンは一か所に集めたカンクリ族の反乱を危惧し、長期戦の末に撤退したモンゴルの騎兵隊を追撃する計画を立てていたと推測しているが、モンゴル軍の攻撃の前にアラーウッディーンの戦略は破綻する。モンゴル軍は投石機などの攻城兵器を使用して包囲戦を進める一方、ムスリム商人を使者として降伏を促し、大都市の攻撃には捕虜とした兵士や市民を前線に立たせて敵軍の戦意を失わせた。モンゴル軍がホラズム・シャー朝征服の際に使用した兵器は投石機のほか、弩、雲梯、破城槌、陶器の瓶にガソリンか火薬を入れた投擲武器(ナフタ)が挙げられている。 1219年末にオトラルに到着したチンギスは次男のチャガタイと三男のオゴデイが率いる第一部隊にオトラルの包囲、長男のジョチが率いる第二部隊にシル川下流域のジャンドの攻略、アラク・ノヤン、スイケトゥ・チェルビ、タガイ・バアトルが率いる第三部隊にアングレン川とシル川の合流地であるバナーカトの攻略を命じ、自身は直属軍を率いて末子のトゥルイとともにブハラ・サマルカンド方面に向けて進軍した。本来、東方からサマルカンド方面に向かう際にはバナーカトを経てシル河を渡るのが通常の行程であり、アラク・ノヤンら第3軍が陽動としてバナーカトに向かう隙にチンギス・カン自ら率いる本隊がホラズム・シャー朝の本拠地サマルカンドを急襲するというのがモンゴル軍の戦略であった。逆にホラズム側としてはオトラル、バナーカトといった要衝の守りを固めモンゴル軍の消耗を待つことを目的としていたと見られるが、これらの要衝を別働隊に任せたチンギス・カン本隊のブハラ急襲を許した時点でホラズム側は戦略的に敗北していたと評されている。5か月にわたる包囲の末にオトラルは陥落するが、イナルチュクは残存兵を率いて城塞に立て籠もり抵抗を続けたが、衆寡敵せずモンゴル軍によって捕らえられる。 オトラルが陥落した後、辺境の諸都市は次々とモンゴル軍によって攻略される。ジャンドに向かったジョチはシル川流域のスィグナクにハサン・ハッジーを派遣して降伏を勧告するが、スィグナクの市民によって使者が殺害されたことを知ると攻撃を開始し、スィグナクの住民はモンゴル兵によって虐殺される。ジョチの進路上にあるシル川流域の都市は略奪に晒され、モンゴル軍の接近を知ったホラズム・シャー朝の司令官のクトルグ・カンはジャンドを放棄し、首都のウルゲンチに逃走し、司令官を失ったジャンドは混乱に陥った。ジャンドの市民はモンゴルから派遣された使者のチン・テムルを殺害しようとするが、チン・テムルはスィグナクの例を出してジャンドの市民を抑え、モンゴル軍を退却させる偽の約束を取り付けて帰還した。モンゴル軍の攻撃を受けたジャンドは抵抗を行うことなく陥落し、チン・テムルを侮辱した数人を除いて市民の命は助けられたが、町は9日の間モンゴル兵の略奪を受ける。1220年の間ジョチはジャンドにとどまり、翌1221年にホラズム地方に向けて進軍する。
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