マー・ワラー・アンナフルの制圧
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「アラーウッディーン・ムハンマド」の記事における「マー・ワラー・アンナフルの制圧」の解説
即位直後にゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの侵攻を受けるが、宗主国のカラ・キタイ(西遼)の援軍と共にゴール軍を撃退する。このシハーブッディーンのホラズム攻撃には、ホラズム・シャー朝の拡大を警戒するアッバース朝のカリフ・ナースィルの扇動があったと考えられている。 戦勝の後、ゴール朝の支配するヘラート、バルフを占領してホラーサーン地方全土を支配下に収め、マーザンダラーン、ケルマーンに勢力を拡大した。 アラーウッディーンの即位以前より、ホラズム・シャー朝のスルターンたちは仏教国のカラ・キタイに貢納を支払い続けており、アラーウッディーン、ホラズム・シャー朝の国民は偶像を崇拝する異教徒への貢納を耐え難く思っていた。カラ・キタイに臣従していた西カラ・ハン国もカラ・キタイから派遣された代官の搾取に不満を抱いてアラーウッディーンに挙兵の協力と臣従を申し出、自国にカラ・キタイの従属下から抜け出すに十分な国力があると考えたアラーウッディーンは、従属関係を破棄する機会を待った。カスピ海北方に居住するキプチャク族討伐の後、貢納金を受け取りに来たカラ・キタイの使者を斬殺して敵対の意思を明確にした。ヒジュラ暦605年(1208年 - 1209年)にホラズム軍はカラ・キタイ領に侵入するが、戦闘に敗れてアラーウッディーンは捕虜となった。彼は従者の機転によって奴隷と身分を偽り帰国するが、国内では彼が死んだという噂が流れており、王を自称した兄のアリー・シャー、独立を画策する叔父のアミーン・アル・ムルクら不穏な動きを見せた者もいた。翌ヒジュラ暦606年(1209年 - 1210年)にカラ・キタイの簒奪を図るナイマン族のクチュルクの要請を受けて、西カラ・ハン国のスルターン・ウスマーンと共に再びカラ・キタイを攻撃する。1210年にタラス河畔でカラ・キタイの将軍ターヤンクーが率いる軍隊を撃破し、トルキスタンのカラ・キタイ領の一部を併合した。異教徒に対する勝利はホラズム国内だけでなく周辺の王侯からも称賛され、人々は彼に「第二のアレキサンダー」の称号を与えようとした。しかし、アラーウッディーンはセルジューク朝のスルターンにちなんだサンジャルの異称を名乗り、40年超に及ぶ長期の治世を維持したサンジャルにあやかろうとした。 帰国後、アラーウッディーンは娘のカン・スルターンを西カラ・ハン国の君主ウスマーンと婚約させ、盟約に従って西カラ・ハン国を臣従国の地位に置き、西カラ・ハン国の首都サマルカンドに代官を派遣する。1210年(あるいは1212年)、ホラズムからの圧力に苦しんだウスマーンが再びカラ・キタイに臣従し、サマルカンド内のホラズム人を虐殺する事件が起こる。ホラズム軍は報復としてサマルカンドを攻撃、ウスマーンを処刑し、西カラ・ハン国を滅ぼした。西カラ・ハン国の併合の後、アラーウッディーンはアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフル(現ウズベキスタン中部)を勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した。
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