マー・ワラー・アンナフルの制圧とは? わかりやすく解説

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マー・ワラー・アンナフルの制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 04:14 UTC 版)

アラーウッディーン・ムハンマド」の記事における「マー・ワラー・アンナフルの制圧」の解説

即位直後ゴール朝シハーブッディーン・ムハンマド侵攻を受けるが、宗主国カラ・キタイ西遼)の援軍と共にゴール軍を撃退する。このシハーブッディーンホラズム攻撃には、ホラズム・シャー朝拡大警戒するアッバース朝のカリフ・ナースィルの扇動があったと考えられている。 戦勝の後、ゴール朝支配するヘラートバルフ占領してホラーサーン地方全土支配下収めマーザンダラーンケルマーン勢力拡大した。 アラーウッディーンの即位以前より、ホラズム・シャー朝スルターンたちは仏教国のカラ・キタイ貢納支払い続けており、アラーウッディーン、ホラズム・シャー朝国民偶像崇拝する異教徒への貢納を耐え難く思っていた。カラ・キタイ臣従していた西カラ・ハン国カラ・キタイから派遣され代官搾取に不満を抱いてアラーウッディーンに挙兵協力臣従申し出自国カラ・キタイ従属下から抜け出す十分な国力があると考えたアラーウッディーンは、従属関係破棄する機会待ったカスピ海北方居住するキプチャク族討伐の後、貢納金を受け取りに来たカラ・キタイ使者斬殺して敵対意思明確にした。ヒジュラ暦605年1208年 - 1209年)にホラズム軍はカラ・キタイ領に侵入するが、戦闘敗れてアラーウッディーンは捕虜となった。彼は従者機転によって奴隷身分偽り帰国するが、国内では彼が死んだという噂が流れており、王を自称した兄のアリー・シャー、独立画策する叔父のアミーン・アル・ムルクら不穏な動き見せた者もいた。翌ヒジュラ暦606年1209年 - 1210年)にカラ・キタイ簒奪を図るナイマン族のクチュルク要請受けて、西カラ・ハン国のスルターン・ウスマーンと共に再びカラ・キタイ攻撃する1210年タラス河畔でカラ・キタイ将軍ターヤンクーが率い軍隊撃破しトルキスタンカラ・キタイ領の一部併合した異教徒対す勝利ホラズム国内だけでなく周辺王侯からも称賛され人々彼に第二アレキサンダー」の称号与えようとした。しかし、アラーウッディーンはセルジューク朝スルターンにちなんサンジャル異称名乗り40年超に及ぶ長期治世維持したサンジャルにあやかろうとした。 帰国後、アラーウッディーンは娘のカン・スルターンを西カラ・ハン国君主ウスマーン婚約させ、盟約に従って西カラ・ハン国臣従国の地位に置き、西カラ・ハン国首都サマルカンド代官派遣する1210年(あるいは1212年)、ホラズムからの圧力苦しんだウスマーンが再びカラ・キタイ臣従し、サマルカンド内のホラズム人虐殺する事件が起こる。ホラズム軍は報復としてサマルカンド攻撃ウスマーン処刑し、西カラ・ハン国滅ぼした。西カラ・ハン国併合の後、アラーウッディーンはアム川スィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフル(現ウズベキスタン中部)を勢力下に置き、首都サマルカンド移した

※この「マー・ワラー・アンナフルの制圧」の解説は、「アラーウッディーン・ムハンマド」の解説の一部です。
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