ペロニスモの時代(1943年-1955年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「ペロニスモの時代(1943年-1955年)」の解説
1943年9月に行われる予定の大統領選挙にて、またも不正選挙が行われることを憂慮した統一将校団 (GOU) が、親枢軸中立を掲げて6月4日に決起し、枢軸国に宣戦布告しようとしていたアルトゥーロ・ラウソン大統領を追放してペドロ・パブロ・ラミレス将軍が大統領に就任した。文民の支持なしに軍部内の主導権のみによって行われたこのクーデターは、1943年にアルゼンチン史上初めて工業生産が農業生産を上回っていたように、当時自発的に進んでいた工業化の要求に応えることとなった。このため、このクーデターは単なる軍事クーデターに留まらず、社会や経済の変革をも包括することになった。 クーデター後フアン・ドミンゴ・ペロン大佐が陸軍次官と国家労働局長に就任し、「上から」の積極的な労働者保護政策を打ち出した。翌1944年1月にラミレス政権が枢軸国と断交すると、このことがペロン大佐を中心とするGOUの非難を呼び、2月にラミレスは失脚し、3月にペロンの友人で副大統領だったエデルミロ・ファーレルによる政権が成立した。このことはアルゼンチンの中立を放棄させようとするアメリカ合衆国の怒りを招き、合衆国によるファーレル政権不承認と経済制裁が発動されたが、この露骨な内政干渉がかえって国民を団結させ、積極中立を擁護するペロン大佐の人気を高めることになった。枢軸国の最終的な敗北がもはや明らかとなった1945年3月27日に、ファーレル政権はナチス・ドイツと大日本帝国に宣戦布告したが、この頃にはペロンは自らをアルゼンチンの主権と、労働者の権利を擁護する存在としてイメージ形成し、ペロンの思想はペロニスモ、ペロンの支持者はペロニスタと呼ばれるようになっていた。 1945年8月に戒厳令が解除されると、ペロンの政策をファシズムだとみなした急進党、社会党、共産党や、アメリカ合衆国大使スプルーレ・プレイドンらは積極的にペロン批判を初め、10月9日にエドゥアルド・アバロス将軍の率いる軍内の反ペロン派がクーデターを起こし、ペロンを幽閉した。しかし、このクーデターはペロン派のCGTや労働者の行った「10月17日の集会」により失敗し、ペロンは釈放された。この時点でペロニスモは、ペロニスタによる「下から」の大衆運動となった。 1946年2月の大統領選挙で、労働党から出馬したペロンは保守党、急進党、社会党からなる民主連合を破って勝利し、6月4日に大統領に就任した。1947年に労働党は正義党(ペロン党)に改組された。 ペロン政権は「社会正義、経済的自由、政治的主権」を掲げ、権威主義的に米州機構からの脱退に代表される独自外交路線や、国防の強化のための重工業育成を図り、1947年から1951年までに第一次五ヵ年計画が行われた。この頃ペロンが「金の延べ棒がごろごろしていて中央銀行の通路は歩けない」と豪語したように、大戦中に蓄えられたアルゼンチンの外貨保有量は終戦直後は世界一であり、この莫大な外貨を梃子にして工業化と福祉政策が進められることになる。このような経済的国民主義により1946年には電話会社と中央銀行が、1948年にイギリス資本の鉄道が接収された。しかし、第一次五ヵ年計画は設備投資や技術導入の不足により重工業化に失敗し、繊維産業などの軽工業を発展させたに留まり、工業偏重政策のために農牧業の生産も落ちてしまった。更には戦闘的労働組合の経営介入や、無計画な福祉による労働者のモラルの低下は国庫支出の増大と共に投資の減少を引き起こし、1930年代に見られたアルゼンチンの産業の自主的な民族的発展は停止してしまった。また、外貨も1949年には使い果たしてしまうことになる。 このように1949年から1950年にかけての経済危機により、ペロニスモの危機は明らかになっていたが、1952年にペロンは憲法改正により連続再選した。しかし、大衆のペロンへの支持は次第に失われてゆき、同年労働者から聖母のように慕われていた妻のエバ・ペロンが急死したこともペロン政権への大きな痛手となった。1953年に開始された第二次五ヵ年計画では農牧業を重視した方向転換が図られ、また、アメリカ合衆国資本の流入を認めることになった。しかし、この措置はそれまでの反米的な姿勢と矛盾するものであり、ペロニスタ内部の批判が募ることになる。内外からペロン政権への攻撃が強まる中で1954年に離婚法を制定したことは、ペロン政権にとって命取りとなり、カトリック教会と敵対して1955年6月にペロン自身がローマ教皇に破門されると国民に大きな動揺が広がり、最終的に9月16日にエドゥアルド・ロナルディ将軍のクーデターによってペロンは追放された。 このようにペロン政権は寡頭支配層と労働者の対立を強調したものの、その一方で農地改革などの寡頭支配の基盤を切り崩す政策は行われず、また、行き過ぎた労働者保護により労働者の被害者意識と階級対立を強めてしまい、後の国民統合に大きな禍根を残すことになった。
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