ペロニスモの時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ペロニスモの時代の意味・解説 

ペロニスモの時代(1943年-1955年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「ペロニスモの時代(1943年-1955年)」の解説

1943年9月行われる予定大統領選挙にて、またも不正選挙が行われることを憂慮し統一将校団 (GOU) が、親枢軸中立掲げて6月4日決起し枢軸国宣戦布告しようとしていたアルトゥーロ・ラウソン大統領追放してペドロ・パブロ・ラミレス将軍大統領就任した文民支持なし軍部内の主導権のみによって行われたこのクーデターは、1943年アルゼンチン史初め工業生産農業生産上回ってたように当時自発的に進んでいた工業化要求応えることとなったこのため、このクーデター単なる軍事クーデター留まらず社会経済変革をも包括することになったクーデター後フアン・ドミンゴ・ペロン大佐陸軍次官国家労働局長に就任し、「上から」の積極的な労働者保護政策打ち出した。翌1944年1月ラミレス政権枢軸国断交すると、このことがペロン大佐中心とするGOUの非難呼び2月ラミレス失脚し3月ペロン友人副大統領だったエデルミロ・ファーレルによる政権成立した。このことはアルゼンチン中立放棄させようとするアメリカ合衆国怒り招き合衆国によるファーレル政権不承認と経済制裁発動されたが、この露骨な内政干渉がかえって国民団結させ、積極中立擁護するペロン大佐人気高めることになった枢軸国最終的な敗北がもはや明らかとなった1945年3月27日に、ファーレル政権ナチス・ドイツ大日本帝国宣戦布告したが、この頃にはペロンは自らをアルゼンチン主権と、労働者の権利擁護する存在としてイメージ形成しペロン思想はペロニスモ、ペロン支持者ペロニスタ呼ばれるようになっていた。 1945年8月戒厳令解除されると、ペロン政策ファシズムだとみなした急進党社会党共産党や、アメリカ合衆国大使スプルーレ・プレイドンらは積極的にペロン批判初め10月9日にエドゥアルド・アバロス将軍率いる軍内のペロン派がクーデター起こしペロン幽閉した。しかし、このクーデターペロン派のCGT労働者行った10月17日集会」により失敗しペロン釈放された。この時点でペロニスモは、ペロニスタによる「下から」の大衆運動となった1946年2月大統領選挙で、労働党から出馬したペロン保守党急進党社会党からなる民主連合破って勝利し6月4日大統領就任した1947年労働党正義党ペロン党)に改組された。 ペロン政権は「社会正義経済的自由政治的主権」を掲げ権威主義的米州機構からの脱退代表される独自外交路線や、国防強化のための重工業育成図り1947年から1951年までに第一次五ヵ年計画が行われた。この頃ペロンが「金の延べ棒ごろごろしていて中央銀行通路歩けない」と豪語したように、大戦中に蓄えられアルゼンチン外貨保有量は終戦直後世界一であり、この莫大な外貨梃子にして工業化福祉政策進められることになる。このような経済的国民主義により1946年には電話会社中央銀行が、1948年イギリス資本鉄道接収された。しかし、第一次五ヵ年計画設備投資技術導入の不足により重工業化に失敗し繊維産業などの軽工業発展させたに留まり工業偏重政策のために農牧業生産落ちてしまった。更には戦闘的労働組合経営介入や、無計画な福祉による労働者モラル低下国庫支出増大と共に投資減少引き起こし1930年代見られアルゼンチン産業自主的な民族的発展停止してしまった。また、外貨1949年には使い果たしてしまうことになる。 このように1949年から1950年にかけての経済危機により、ペロニスモの危機明らかになっていたが、1952年ペロン憲法改正により連続再選した。しかし、大衆ペロンへの支持次第失われてゆき、同年労働者から聖母のように慕われていた妻のエバ・ペロン急死したこともペロン政権へ大きな痛手となった1953年開始され第二次五ヵ年計画では農牧業重視した方向転換図られまた、アメリカ合衆国資本流入認めることになった。しかし、この措置それまで反米的な姿勢矛盾するものであり、ペロニスタ内部批判募ることになる。内外からペロン政権へ攻撃が強まる中で1954年離婚法制定したことは、ペロン政権にとって命取りとなり、カトリック教会敵対して1955年6月ペロン自身ローマ教皇破門されると国民大きな動揺広がり最終的に9月16日エドゥアルド・ロナルディ将軍クーデターによってペロン追放された。 このようにペロン政権寡頭支配層と労働者対立強調したものの、その一方で農地改革などの寡頭支配基盤切り崩す政策行われずまた、行き過ぎた労働者保護により労働者被害者意識階級対立強めてしまい、後の国民統合大きな禍根を残すことになった

※この「ペロニスモの時代(1943年-1955年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
「ペロニスモの時代(1943年-1955年)」を含む「アルゼンチンの歴史」の記事については、「アルゼンチンの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ペロニスモの時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ペロニスモの時代」の関連用語

ペロニスモの時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ペロニスモの時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアルゼンチンの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS