ペレコープ地峡 - 1944年春
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「クリミアの戦い (1944年)」の記事における「ペレコープ地峡 - 1944年春」の解説
冬の間、両軍とも、春の戦闘に備えて準備が進められた。ドイツ側では、クリミア防衛の為に、第73師団、第111師団、第297突撃砲大隊があらたに第17軍へ移されたが、2つの師団は大幅に損耗していて編成定数に対して半分程度の戦力だった。ルーマニアのアントネスク首相は、クリミアへは補充も増援も一切送らない方針だったので、クリミアにあるルーマニア軍6個師団は、不動の車両を多数抱えいずれも30%程度の戦力しかなかった。12月以降、陣地構築が進み、ペレコープ地峡では、三層の縦深陣地で、最終防衛線はイシュンだった。ペレコープ地峡の担当は第50師団だった。腐海橋頭堡とクリミア半島本体の間には3つの大きな塩水湖があり4つの狭路で接続されていた。いずれも幅の狭い見晴らしの良い平坦な湿地で、防衛側に有利な地形だった。西の2つの狭路は、ルーマニア第10歩兵師団、東の2つの狭路はルーマニア第19歩兵師団、チョーンガル半島はドイツ第336師団が担当だった。ソ連軍による腐海橋頭堡からの戦線突破はペレコープ地峡の防衛線をバイパス出来、これに対応できるのはイシュンの防衛線だけなので、タタールの壁とアルミャンスク集落を放棄してイシュンの防衛線のみに注力する案もあったが、ヒトラーはクリミア半島での1インチの撤退も認めなかったので、この案は採用されなかった。 ソ連側でも、部隊の割当変更が行われ、ペレコープ地峡は第2親衛軍(ゲオルギー・F・ザハロフ中将)、腐海橋頭堡とチョーンガル半島は第51軍(イアコフ・G・クレイザー中将)になり、第19戦車軍団(イワン・D・ヴァシレフ中将)が戦線突破達成後の追撃用方面軍予備とされた。12月と1月に腐海橋頭堡への舟橋がひとつずつ架けられたが、これらの橋はゆっくりとではあるが、戦車を渡すことも可能だった。ペレコープ地峡では、前進塹壕の掘削がすすみ、ドイツ軍防衛陣地との距離の短縮が進んだ。空軍の増強は更に進み、4月には、ドイツ側のベストのパイロットとベストの機材をもってしても、ソ連空軍の圧倒的優位を否定することはできなくなった。トルブーヒンとエリョーメンコは、3月にモスクワでスターリンと協議してクリミア攻略計画で合意したが、作戦の実施はひどい春の泥濘の為、4月になった。 ソ連軍の攻勢は、4月7日に始まった。初日は砲爆撃だけで、ソ連空軍は、ペレコープ地峡、腐海橋頭堡対抗陣地、ドイツ空軍基地を攻撃した。8日は、2時間半の準備砲撃がペレコープ地峡、腐海橋頭堡で行われ、1030時より煙幕が漂う中を歩兵の前進が始まった。ペレコープ地峡では、第2親衛軍第13親衛ライフル軍団は中央部で第一線陣地のアルミャンスク集落を突破したが、その後背の地雷原で阻止された。腐海橋頭堡では、第51軍は、一番西を除く3つの狭路を攻撃したが、一番東の狭路を除いて成果はなかった。一番東の狭路では、500メートル戦線を進めることが出来た。9日は、第51軍は、一番東の狭路の攻撃に注力し、戦線突破に成功した。9日午後、コンラッドは、イェーネッケに状況報告を行い、総撤退令を出すべきと具申した。イェーネッケは、1900時に、OKHに連絡することなくクリミアの全軍に対しグナイゼナウ線への撤退を命じた。ヒトラーは後でこれを知り、激怒したがどうすることも出来なかった。10日に、第19戦車軍団は、腐海橋頭堡の舟橋を渡って戦線に投入され、11日には、XXXXIX軍団の司令部と補給集積所のあるDzhankoyを占拠した。 ドイツ・ルーマニア軍は、イシュンの防衛線ではほとんど防衛戦を行わずに撤退し、グナイゼナウ線でもとどまることはできず、ソ連軍は、13日にシンフェロポリとイェウパトーリヤを奪回した。 ケルチ半島では、V軍団がケルチ港の港湾設備の破壊を始めたので、ドイツ軍の撤退の動きはソ連軍の知るところとなった。V軍団は、南の半島海岸道を海軍の助けをかりて16日には、セヴァストポリの東部まで撤退できたが、その過程で重火器の70%近くを喪失した。
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