ペレコープ地峡 - 1944年春とは? わかりやすく解説

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ペレコープ地峡 - 1944年春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:02 UTC 版)

クリミアの戦い (1944年)」の記事における「ペレコープ地峡 - 1944年春」の解説

冬の間、両軍とも、春の戦闘備えて準備進められた。ドイツ側では、クリミア防衛為に、第73師団、第111師団、第297突撃砲大隊あらたに第17軍移されたが、2つ師団大幅に損耗していて編成定数に対して半分程度戦力だった。ルーマニアアントネスク首相は、クリミアへは補充増援一切送らない方針だったので、クリミアにあるルーマニア軍6個師団は、不動車両多数抱えいずれも30程度戦力しかなかった。12月以降陣地構築進みペレコープ地峡では、三層の縦深陣地で、最終防衛線はイシュンだった。ペレコープ地峡担当は第50師団だった。腐海橋頭堡クリミア半島本体の間には3つの大きな塩水湖があり4つ狭路接続されていた。いずれも幅の狭い見晴らし良い平坦な湿地で、防衛側有利な地形だった。西の2つ狭路は、ルーマニア10歩兵師団、東の2つ狭路ルーマニア19歩兵師団、チョーンガル半島ドイツ336師団担当だった。ソ連軍による腐海橋頭堡からの戦線突破ペレコープ地峡防衛線をバイパス出来、これに対応できるのはイシュンの防衛線だけなので、タタールの壁とアルミャンスク集落放棄してイシュンの防衛線のみに注力する案もあったが、ヒトラークリミア半島での1インチ撤退認めなかったので、この案は採用されなかった。 ソ連側でも、部隊割当変更が行われ、ペレコープ地峡は第2親衛軍(ゲオルギー・F・ザハロフ中将)、腐海橋頭堡とチョーンガル半島は第51軍(イアコフ・G・クレイザー中将)になり、第19戦軍団(イワン・D・ヴァシレフ中将)が戦線突破達成後の追撃用方面軍予備とされた。12月1月腐海橋頭堡への舟橋がひとつずつけられたが、これらのゆっくりとではあるが、戦車を渡すことも可能だったペレコープ地峡では、前進塹壕掘削がすすみ、ドイツ軍防衛陣地との距離の短縮進んだ空軍増強は更に進み4月には、ドイツ側ベストパイロットベスト機材をもってしても、ソ連空軍圧倒的優位否定することはできなくなった。トルブーヒンとエリョーメンコは、3月モスクワスターリン協議してクリミア攻略計画合意したが、作戦の実施はひどい春の泥濘の為、4月になったソ連軍の攻勢は、4月7日始まった初日は砲爆撃だけで、ソ連空軍は、ペレコープ地峡腐海橋頭堡対抗陣地ドイツ空軍基地攻撃した8日は、2時間半の準備砲撃ペレコープ地峡腐海橋頭堡行われ、1030時より煙幕が漂う中を歩兵前進始まったペレコープ地峡では、第2親衛軍第13親衛ライフル軍団中央部第一線陣地のアルミャンスク集落突破したが、その後背の地雷原阻止された。腐海橋頭堡では、第51軍は、一番西を除く3つの狭路攻撃したが、一番東の狭路除いて成果はなかった。一番東の狭路では、500メートル戦線進めることが出来た9日は、第51軍は、一番東の狭路攻撃注力し、戦線突破成功した9日午後コンラッドは、イェーネッケに状況報告行い、総撤退令を出すべきと具申した。イェーネッケは、1900時に、OKHに連絡することなくクリミア全軍対しグナイゼナウ線への撤退命じたヒトラー後でこれを知り激怒したどうすることも出来なかった。10日に、第19戦軍団は、腐海橋頭堡舟橋渡って戦線投入され11日には、XXXXIX軍団司令部補給集積所のあるDzhankoyを占拠した。 ドイツ・ルーマニア軍は、イシュンの防衛線ではほとんど防衛戦行わず撤退しグナイゼナウ線でもとどまることはできず、ソ連軍は、13日シンフェロポリイェウパトーリヤ奪回したケルチ半島では、V軍団ケルチ港の港湾設備破壊始めたので、ドイツ軍の撤退動きソ連軍の知るところとなった。V軍団は、南の半島海岸道を海軍助けをかりて16日には、セヴァストポリ東部まで撤退できたが、その過程重火器70%近く喪失した

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