プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代
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「マーク・バーリー」の記事における「プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代」の解説
ジェファーソン短大1年時の1998年6月にMLBドラフト38巡目(全体1139位)でシカゴ・ホワイトソックスから指名され、翌1999年5月に入団契約を交わした。 同年A級バーリントン・ビーズでプロデビューを果たし、20試合に登板し四球はわずか16と制球力は非の打ち所がなく、トム・グラビンと比較された。 2000年に、傘下のマイナーリーグAA級バーミングハム・バロンズで16試合8勝4敗、防御率2.28の好成績を残し、フューチャーズゲームにも選出された。シーズン途中の7月にAAA級を飛び越えてメジャーに昇格し、7月16日のブルワーズ戦で、チームが11-4とリードした9回表に登板しメジャーデビュー。1点を失うが後続を抑え、試合を締める。その後3試合に先発したが、先発3試合目に3.2イニングで5失点と打ち込まれ、シーズン終了までリリーフに回された。 2001年に先発ローテーションに定着。5月から4か月連続で月間防御率2点台を記録し、8月3日のタンパベイ・デビルレイズ戦では被安打1の準完全試合を達成。9月に失速するまで防御率はリーグ1位で、シーズン通して221.1投球イニング(リーグ10位)で16勝8敗、防御率3.29(同4位)、WHIP1.066(同1位)を記録。 2002年には開幕投手を務め、19勝(リーグ4位)12敗を記録した。ホワイトソックスの左腕投手としては1975年にジム・カートが20勝(14敗)を記録して以来26年ぶりとなる19勝を挙げたバーリーは、この年以降2006年まで5年連続で開幕投手に起用されるなどエースの座をつかむ。 2003年シーズン終了後に球団はバーリーと3年総額1800万ドルで契約延長した。 2004年・2005年には2年連続でリーグ最多投球回を記録。2004年5月11日のボルチモア・オリオールズ戦から2005年7月26日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦まで「49試合連続6イニング以上登板」という記録を打ちたてるなど "イニングイーター" (多くのイニングを投げる投手のこと)ぶりを発揮した。7月21日のクリーブランド・インディアンス戦、被安打の2走者を併殺打でアウトにするなど、打者27人で完封勝利を挙げた。 2005年は、オールスターゲームで先発登板して勝利投手となり、シーズン通算では防御率3.12と自己最高を記録。ワールドシリーズでは、第2戦に先発登板し勝ち星を挙げ、第3戦ではチームが7人の救援投手を使い果たし延長14回二死・走者一・三塁の場面で自ら登板を志願し、アダム・エバレットを遊飛に抑えセーブを挙げた。2試合連続登板で「先発→セーブ」のパターンを記録したのはワールドシリーズ史上初のことであった。その後チームは4連勝で88年ぶりのワールドシリーズ制覇を達成。 2006年5月14日のミネソタ・ツインズ戦では、初回に7失点しながら勝利投手となった。これは1900年9月29日にジャック・パウエル(セントルイス・カージナルス)がオーファンズ(現:カブス)戦で記録して以来106年ぶりの珍事であった。この年は12勝13敗で初の負け越し、防御率も4.99で自己最低を更新するなど、前年から一転して低迷。特に後半戦は14試合で3勝7敗、防御率6.44と大不振に陥った。それでもホワイトソックスは契約オプションを行使し、バーリーは2007年もホワイトソックスで投げることになった。オフに球団は2008年から3年総額3300万ドルで契約延長を打診したが拒否した。 契約最終年となった2007年、バーリーは4月18日のテキサス・レンジャーズ戦でノーヒットノーランを達成した。ホワイトソックスの投手としては16年ぶりの達成で、5回にサミー・ソーサへ四球を1つ与えただけ、しかもその後すぐ牽制球で仕留め打者27人で試合を終了させた "準完全試合" だった。以降6月終了時点まで15試合に登板し、5勝4敗、防御率3.33を記録。7月8日、バーリーとホワイトソックスは4年5600万ドルで契約延長に合意した。シーズン通算では、2001年以降では自己最少となる30先発、201.0イニング、10勝(9敗)に終わったが、防御率は3.63と持ち直した。 2009年7月23日、タンパベイ・レイズ戦で完全試合を達成(en:Mark Buehrle's perfect game)。この偉業により、ホワイトソックスファンであるバラク・オバマ大統領から祝福の電話を受けた。次の登板となった7月28日のミネソタ・ツインズ戦でも6回二死まで1人の走者も許さず、ジム・バーとチームメイトのボビー・ジェンクスが持っていた41者連続アウトを更新する45者連続アウトのMLB新記録を達成した。なおこの記録は、2014年8月にヤスメイロ・ペティット(46打者連続アウト)によって更新されている。 ホワイトソックスには2011年まで在籍し、2001年から11年連続で200イニング、2桁勝利を達成した。
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プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代
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「アーロン・ローワンド」の記事における「プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代」の解説
1998年のMLBドラフトでシカゴ・ホワイトソックスから1巡目(全体35位)指名されたローワンドはプロ入りする。 2001年に、メジャーデビューを果たし、この年は打率.293を記録。 2002年は、当初は守備固めでの出場が多かったが、7月末 - 8月初頭から中堅手として先発するようになった。しかしこの年の11月にローワンドはオートバイ事故を起こし、左肩甲骨や左右の肋骨を折る怪我を負う。手術を経て回復した。 2003年は、最初の23試合で打率.133と低迷しマイナーに降格される。6月10日にメジャーへ復帰したが、出場は主に守備固めでのものだった。 2004年は再び中堅のレギュラーになる。5月中頃には打率が.212まで落ち込んだがその後復調し、シーズン通算で打率.310・24本塁打・69打点・17盗塁と自己最高を記録。長打率.544はリーグ7位だった。 2005年は自己最高の157試合に出場し成績が軒並みダウンしたが、ホワイトソックスは88年ぶりにワールドシリーズで優勝した。
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プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代
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「チャーリー・ヘイガー」の記事における「プロ入りとマイナー時代とホワイトソックス時代」の解説
2001年のMLBドラフトでシカゴ・ホワイトソックスからドラフト25巡目指名され入団。 2002年末に一時任意引退し、2004年に復帰。 2006年5月10日にメジャー初登板。
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