プロデビュー〜ウェルター級時代
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「シュガー・レイ・ロビンソン」の記事における「プロデビュー〜ウェルター級時代」の解説
1940年10月4日、19歳で米国ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンにおけるライト級4回戦にて、ジョー・エチェベリアを2回TKOに下しプロデビュー。 ロビンソンはプロデビューした頃、世界ヘビー級チャンピオンとなった“褐色の爆撃機”ジョー・ルイスのトレーニング・キャンプに参加していた時期がある。ルイスを育てた名伯楽ジャック・ブラックバーンは毎日、夕刻になるとロビンソンをキャンプ場近くの湖に連れ出し、ボートを漕がせては釣りに興じた。不平を漏らす若きロビンソンに、ルイスは「本当に釣りがしたけりゃ大西洋にでも行くさ。あれは君の腕を鍛えるためだ。ボート漕ぎは腕力をつけるのに一番だからな」と知らせたという。それ以降ロビンソンは進んでボート漕ぎに励み、腕力強化に努めた。 1941年7月21日、後の世界ライト級チャンピオン、サミー・アンゴットに10回判定勝ち。9月25日、後の世界ウェルター級チャンピオンで、当時42勝無敗2分のマーティ・サーボに10回判定勝ち。 10月31日、元世界ウェルター級チャンピオンで「反則王」と言われたラフ・ファイター、フリッツィー・ジビックに10回判定勝ち。 1942年1月16日、ジビックとの再戦で10回TKO勝ち。5月28日、マーティ・サーボとの再戦に10回判定勝ち。 7月31日、世界ライト級王座に就いていたサミー・アンゴットとノンタイトル戦で2度目の対戦、10回判定勝ち。 10月2日、宿敵ジェイク・ラモッタと最初の対戦、10回判定勝ち。 この年、年間14勝9KO無敗の戦績、ジビック、サーボ、アンゴット、ラモッタを破った内容を評価され、リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。デビュー3年目の選手としては異例の選出だが、ロビンソンの快進撃がいかに目覚ましかったかの証左であろう。 1943年2月6日、デトロイトのオリンピア・スタジアムでジェイク・ラモッタと2度目の対戦。10回判定負けでプロ初黒星を喫した。デビュー以来の連勝は40でストップした。この試合のラモッタはロビンソンより16ポンド(7.3kg)も体重が重かった。2月26日、わずか三週間後、ラモッタと3度目の対戦。10回判定勝ち。 2月27日、アメリカ陸軍に入隊。軍隊では再びウォーカー・スミスと呼ばれるようになる。この時、基地を回りジョー・ルイスとエキシビジョンマッチを行ったが、黒人兵が差別から観戦を許可されず、ロビンソンが抗議をする事もあった。 8月2日、三階級同時制覇のヘンリー・アームストロングに10回判定勝ち。 1944年3月29日、ヨーロッパ派遣のため配置されていたハミルトン駐屯地から、突然ロビンソンが姿を消し、4月1日に道ばたで発見され病院に運ばれる事件が起きる。4月5日に目を覚ましたロビンソンは駐屯地の兵舎の階段から足を踏み外したこと以外、5日間の記憶を完全に失っていると話した。このことで精神遅滞と診断されたロビンソンは6月3日に名誉除隊扱いとなるが、不可解な事件に兵役逃れの演技と書く新聞もあった。 1945年1月16日、トミー・ベルに10回判定勝ち。ベルとは後に世界タイトルマッチで再戦することとなる。2月23日、ジェイク・ラモッタと4度目の対戦、10回判定勝ち。 5月14日、ホセ・バソラと10回引き分け。バソラとはミドル級転向後に再度対戦する。 9月26日、ジェイク・ラモッタと5度目の対戦、12回判定勝ち。 1946年12月20日、マーティ・サーボが返上して空位となった世界ウェルター級王座決定戦で、トミー・ベルに15回判定勝ち、新チャンピオンとなった。 ロビンソンはデビューからジェイク・ラモッタに初黒星を喫するまで、後の世界王者アンゴット、サーボ、ラモッタ、元王者ジビックを破るなど40連勝。またラモッタへの雪辱を重ね、元三冠王アームストロング戦にも勝利するなど、再び破竹の快進撃を続けた(結局この連勝は英国でのターピン戦まで90に伸びる)が、世界挑戦まで5年、実に75戦73勝(49KO)1敗1分の戦績を要した。当時の王者サーボが2度敗れたロビンソンとの対戦を回避したこと、当時ボクシング業界最大勢力だったIBC(インターナショナル・ボクシング・クラブ)との専属契約を忌避し、自由契約選手の立場を取り続けたこと、そしてなにより当時ボクシング業界を牛耳っていたマフィアと協力するのを拒否したことが、その理由にあげられる。しかしロビンソンはその華麗なファイトスタイルによる人気と、戦績通りの圧倒的実力によってこれらのハンディを乗り越え、スーパースターの座に駆け上がった。この時期のロビンソンの強さはまさに圧倒的で、同時代の中量級における世界的選手ほぼ全員と対戦し、勝利した。数少ない例外としては、フランスの英雄マルセル・セルダン、「ジレット・ボクシング」の人気者チャック・デイビー(後年キッド・ギャビランに挑みKO負け)、無冠の帝王と呼ばれたチャーリー・バーリー、鋼鉄の男トニー・ゼールがいる。 1947年6月24日、ジミー・ドイルに8回TKO勝ち、初防衛に成功。試合後ドイルが死亡するリング禍が起こった。12月19日、チャック・テイラーに6回TKO勝ち、2度目の防衛。 1948年9月23日、後の世界ウェルター級チャンピオン、「キューバの鷹」ことキッド・ギャビランにノンタイトル10回戦で判定勝ち。後に名王者となるギャビランの健闘が評価された熱戦。両者は翌年、タイトルを賭けて再戦する。6月28日、バーナード・ドクセンに15回判定勝ち、3度目の防衛。 1949年7月11日、キッド・ギャビランとの再戦に15回判定勝ち、4度目の防衛。 1950年8月9日、チャーリー・フサリに15回判定勝ち、5度目の防衛。
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