プロデビュー - VM - L/R
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:27 UTC 版)
「諏訪魔」の記事における「プロデビュー - VM - L/R」の解説
2004年4月に全日本プロレスに入門し、同年10月11日後楽園ホール大会での馳戦でデビュー。 試練の7番勝負初戦ではベイダーと戦い、ベイダーのその巨体を投げ切った。しかし、この途中でヒールターンしたため、試練の7番勝負は5戦しか行っていない。 2005年1月4日には、ヘビー級バトルロイヤルで優勝して賞金100万円を獲得。後に武藤敬司と組み、世界タッグ王座に挑戦した。 2006年1月8日の大阪大会で「VOODOO-MURDERS」(VM)へ加入、ヒールターンを果たすと、この頃から同年2月にリングネームを諏訪魔に改名した。同年のチャンピオン・カーニバルでは、当時三冠ヘビー級王者の小島聡を破り準優勝。6月10日の熊本三井グリーンランド大会「武藤祭」にて、小島の三冠王座に挑戦したが、敗れた。 2007年のチャンピオン・カーニバルでは予選で敗退した。同年、12月に行われた世界最強タッグ決定リーグ戦には小島とのタッグで出場、武藤&ジョー・ドーリング組に敗れはしたものの、準優勝となった。 2008年1月3日の後楽園大会にてVMを離脱した。同年4月、決勝戦にて同学年で新日本プロレスの棚橋弘至を下し、デビューから最短でチャンピオン・カーニバル優勝を果たした。同月29日には、三冠王者の佐々木健介をも破り、デビューから最短で三冠ヘビー級王座初戴冠も果たした。 9月28日、グレート・ムタに敗れ、三冠王座から陥落した。同年の世界最強タッグリーグ戦には近藤修司とのタッグで出場し、準優勝を果たした。 2010年8月29日、鈴木みのるを破って2度目の三冠ヘビー級王座を奪取すると、翌日には全日本プロレス選手会長に就任した。ところが同年9月10日、諏訪魔は後楽園大会にて観客の野次に激怒して観客席にマイクを投げ、全日本プロレス側から厳重注意と3か月間30%の減給処分を下された。同年12月、諏訪魔は浜亮太をパートナーに迎え世界最強タッグリーグ戦に出場し、5年連続の準優勝を果たす。同月、第37回プロレス大賞で殊勲賞を獲得した。諏訪魔は「今年一年いろいろ先頭に立って全日本プロレスを引っ張っていこうという行動がこうやって“殊勲賞”という形で評価されたのは嬉しい」とのコメントを寄せた。 2011年4月、チャンピオン・カーニバルにて永田裕志と対戦するも敗れた。諏訪魔も結局優勝決定戦には進めず、永田のチャンピオン・カーニバル制覇を許してしまうという要因を作ってしまった(なお、永田の決勝の相手は真田聖也であった。)。同年6月、両国国技館大会の三冠戦にて永田に勝利してリベンジを果たす。同年7月、チャンピオン・カーニバル準優勝の真田と三冠戦を行い、勝利。この三冠戦は武藤体制になって、以降の入門生同士による初の三冠戦となった。同年10月、チャンピオン・カーニバルで対戦する機会が全く無かった当時プロレスリング・ノアの秋山準との対戦を熱望し、両国大会での三冠戦で激突するも30分を超える激闘の末、秋山のスターネスダストαで敗れ三冠王座から陥落した。この試合は、同年プロレス大賞ベストバウトの選考にノミネートされた。 2012年、諏訪魔の出身地でもある藤沢市で5月12日に地元凱旋興行と銘打って、全日本プロレスがチャリティープロレス大会を秩父宮記念体育館(藤沢市鵠沼東)で開催し、当日は1,850名の観衆を集めてメインイベントに出場、凱旋勝利を飾った。同年10月21日、名古屋国際会議場大会にてドーリングとシングル・マッチで対決した。諏訪魔も戦いを通してドーリングと意気投合し、「ラスト・レボリューション」(L/R)を結成する。同年の世界最強タッグでは決勝進出を果たしたものの、優勝決定戦ではGET WILDに敗れ準優勝に終わった。 2013年3月17日、両国大会で三冠王者であった船木誠勝を下し、3度目の三冠ヘビー級王座を戴冠。L/Rに近藤修司、カズ・ハヤシ、中之上靖文が相次いで加入し、戦力も増強した。
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