ブラッドリー知事の間のその他の事項
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「ブラッドリー知事の間のその他の事項」の解説
1896年、共和党のウィリアム・マッキンリーが大統領に当選し、ケンタッキー州では共和党知事とその同盟者に対する民主党の反対行動が強まった。さらに1898年に州議会が招集されたとき、両院での民主党多数は圧倒的情勢だった。1898年にブラッドリーが議会に送ったメッセージは、政府の浪費を削減するための支出カット、州の慈善活動期間を非党派委員会の管理下に置くこと、公共教育と法体系の改革など、多くの改革を要求していた。 議会は党派的対立の中で州知事のメッセージの大半を無視した。純正食品および薬品法が知事の署名が無くても成立した。しかし、議論が多かった鉄道料金を規制する法にブラッドリーが拒否権を使ったときは、それが支持された。金本位制支持民主党員で州選出のアメリカ合衆国上院議員ウィリアム・リンゼイが、大統領候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを党の利益をもはや代表していないという根拠で支持しなかった時に、両院はその辞任を要求する決議案を通した。リンゼイは彼がケンタッキー州民を代表していると答え、議員辞職を拒否した。 ブラッドリの議会に対するメッセージの中でもう1つの関心事は、州知事公舎の状態だった。その演説の中で「行政官邸宅について、長年その床が抜けないように支えが必要であり、冬に快適なようにするためには、700フィート (210 m) 以上の隙間塞ぎを施さねばならない。現在の場所は不快であり、1面からの眺めは刑務所の壁を見下ろし、もう1面からの眺めは、近くにある大型製粉所の煙突をみることになる」と述べていた。議会はブラッドリーの心配に対処する代わりに、公邸の管理を州知事から取り上げて控訴裁判所の監督下に移す「切り裂き法案」を成立させた。1899年2月10日、知事寝室の煙道に欠陥があったために公邸は火事になった。その日は大変寒く、火夫が家の水を凍らないようにしておくのが難しいくらいだった。公邸はかなりの損傷を受けた。公邸は保険に入っており、「クーリエ・ジャーナル」の記者が、賢明なやり方は古い建物を壊し、新しいものを建てるか、フランクフォートで知事公舎として使えるような別の家を購入するかだと意見を述べたが、議会は共和党の知事のために最少の便宜を図ること以外やる気が無かった。その結果、公邸は再度修繕された。ブラッドリーは火事の直後にフランクフォートの隣家に滞在した。それ故に、ブラッドリー知事はフランクフォートのキャピトル・ホテルに滞在し、一方ブラッドリー夫人と娘のクリスティーヌはランカスターにある自宅に戻った。その家族はブラッドリーの任期が終わる前にその住居を再度使うことになった。 ブラッドリーは州の東部で続いていた暴力的抗争を止めさせようと努力した。その任期の間にいわゆる「料金所戦争」が続いた。良い道路を造れない多くの田舎では、民間会社が道路を建設し、その費用を回収し利益を出すために有料にした。しかし、地域の貧しい住民は通行料が高すぎる、特に全国的な不況のなかでは厳しいと主張した。彼らは「無料道路」を要求し始めたが、その要求は州政府や連邦政府に届かなかった。そのご多くの者が暴力に訴え、料金所を燃やし、徴収係を脅し、攻撃した。ブラッドリーはこの無法行為に対して厳しい対応を要求したが、民主党が支配する州議会は貧しい州民の窮状に同情するだけで、行動は拒否した。ブラッドリーの任期が終わるまでに、企業はその株を地元集団に売却するか、暴力行為のあったその道路を単純に放棄するかしたので、暴力沙汰の大半は終わった。 米西戦争のときに従軍したケンタッキー州の歩兵4個連隊と騎兵2個連隊は、彼らが駐屯した軍隊キャンプのお粗末な衛生状態や病気のために悩ませられた。部隊はほとんど戦闘に参加しなかったが、その悪コンディションのために84人が死んだ。部隊が故郷に帰還できる日が来ると、ブラッドリーは彼らの旅に必要な病院列車に払う金が州には無いことが分かった。ブラッドリーは自ら銀行から金を借り、その旅程を確保し、州議会が自分に払い戻すように委託した。
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