フェーリクス・ヴァインガルトナーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フェーリクス・ヴァインガルトナーの意味・解説 

フェリックス・ワインガルトナー

(フェーリクス・ヴァインガルトナー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 08:58 UTC 版)

フェリックス・ワインガルトナー
Felix Weingartner
基本情報
出生名 Paul Felix Weingartner, Edler von Münzberg
生誕 1863年6月2日
オーストリア帝国ザーラ
死没 (1942-05-07) 1942年5月7日(78歳没)
スイスヴィンタートゥール
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者作曲家
担当楽器 指揮
活動期間 1891年 - 1936年
レーベル EMI
テンプレートを表示

パウル・フェリックス・ワインガルトナー、エードラー・フォン・ミュンツベルクドイツ語: Paul Felix Weingartner, Edler von Münzberg, 1863年6月2日ザーラオーストリア帝国ダルマチア。現・クロアチア) - 1942年5月7日ヴィンタートゥール)は、オーストリア指揮者作曲家

なお、ワインガルトナー家は、ニーダーエスターライヒに由来を持ち、1820年に、オーストリア皇帝フランツ1世神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世)からエードラー(Edler)称号を賜った家系である。

生涯

4歳の時に父親の死去により、一家とともにグラーツに移る。グラーツ時代から音楽の勉強を始め、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの知己を得て、1881年にハンスリックの推薦でライプツィヒ大学に入学。初めは哲学を専攻するが、程なく音楽に身を投じグラーツ、ライプツィヒヴァイマルの各音楽院で学んだ。ヴァイマルではフランツ・リストの弟子となった。1882年にはリストの推挙を受け、彼の作品を上演する機会に恵まれたが、安定した生活を求めて作曲家から指揮者に転じた。

1885年ケーニヒスベルク、次いでダンツィヒハンブルクの各歌劇場の指揮者となる。1889年マンハイム国民劇場のホーフカペルマイスター、1891年にはベルリン宮廷歌劇場(現、ベルリン国立歌劇場)の首席指揮者となり、1898年まで務めた。1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場(現、ウィーン国立歌劇場)とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(当時は常任指揮者制)の音楽監督に就任した。その間1906年に「古典交響曲の演奏の為の助言 1. ベートーヴェン」(Ratschläge für Aufführungen klassischer Symphonien. Band I, Beethoven, 日本語版題名は『ある指揮者の提言 ベートーヴェン交響曲の解釈』)を出版する。歌劇場の方は3年で辞任(後に1934年-1936年のシーズン音楽監督に復帰している)したが、ウィーン・フィルの常任は1922年まで続いた。途中、1919年にはウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督も兼ねた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは海外ツアーを何度か行い、第一次世界大戦中はスイスを、戦後はチェコスロヴァキアを、そして1922年には南米大陸を訪れた[1]。特に南米ツアーは財政的にも成功したため、オーケストラは1923年にも再び招待されたが、1922年のツアーで周囲とのトラブルを引き起こしたワインガルトナーはその際招待されず、ワインガルトナーのライバルと目されていたリヒャルト・シュトラウスが指揮者として招かれた[1]。オーケストラはこのツアーを引き受けるべきか否かで分断し、当時の楽団長であったアロイス・マルクルはワインガルトナーを支持し招待を断るべきだとしたが、財政上の理由から結局はツアーを決行することとなり、マルクルは辞任した[1]。なお、このツアーにおいては想定したほどの収益は上がらず、さらにはオーケストラのメンバー3名がツアー中に死去してしまった[1][2][† 1]

その結果、1927年にワインガルトナーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に対して「今シーズンの終わりにはコンサート指揮者の地位を降りてバーゼルに移住し、当地の音楽学校の校長及び指揮者となる」と宣言した[3]。この宣言の背景には、リヒャルト・シュトラウスが大きな影響力を持つなかウィーンフィルが登場したザルツブルク音楽祭に、指揮者として招待されなかった怒り、及びウィーンフィル自身がワインガルトナーを呼ぶよう努力しなかったことに対する失望、そしてブルーノ・ワルターエーリヒ・クライバーなどの新人指揮者が、ウィーンフィルと共に大規模なドイツ演奏旅行を行う中、ワインガルトナーとは1926年にドイツ3都市とプラハ、ブダペストのみを巡る小規模なツアーしか行われなかったことがあるとされる[3][† 2]

ただ、のちにウィーンフィルとも和解し、指揮をするようになったほか、ザルツブルク音楽祭にも出演するようになった[5]

1934年から1936年にはザルツブルク音楽祭にも出演した。また、1898年以降イギリスのオーケストラにしばしば客演し、南北アメリカにも単身渡米での客演やウィーン・フィルとのツアーで訪れている。

74歳での来日、死去

74歳を迎える1937年朝日新聞社と日墺協会の招聘で、4度目の夫人(「3度目の夫人」とする書物もある)かつ指揮の弟子[6]であるカルメン・シュトゥーダー=ワインガルトナー(Carmen Studer-Weingartner[7][8])と共に来日し、夫婦で新交響楽団(現在のNHK交響楽団)との1か月間の演奏旅行(東京・日比谷公会堂→静岡市→名古屋市→京都市→大阪市→東京・日比谷公会堂、計10公演)を行った[9]

ナチス・ドイツの勢力拡大とともにパリに逃れ、第二次世界大戦勃発直前にロンドンへ向かい、最後はウィーン辞任後定住していたスイスに戻り、1942年5月7日にヴィンタートゥールの病院で亡くなった。

弟子にはハンス・スワロフスキーヨーゼフ・クリップスシクステン・エッケルベリクルト・ヴェスゲオルク・ティントナーらがいる。

妻:カルメン・シュトゥーダー=ワインガルトナー(女性指揮者)

左:フェリックス・ワインガルトナー(指揮者)、右:カルメン・シュテューダー=ワインガルトナー(指揮者、ワインガルトナー夫人)。昭和12年(1937年)に来日した際の広報写真と思われる。NHK交響楽団『フィルハーモニー』昭和26年(1951年)8月号、巻頭口絵より。

カルメン・シュトゥーダー=ワインガルトナー(Carmen Studer-Weingartner[7][8])は、スイス連邦裁判所判事 フリッツ・シュトゥーダーの令嬢であり、バーゼルの音楽院でワインガルトナーに指揮を学んだ縁で、1931年にワインガルトナーと結婚した[10]1937年(昭和12年)に夫のワインガルトナーと共に来日した時点で、8か国・19のオーケストラを指揮した実績を有した(音楽評論家・久野梓による)[11]。当時、世に知られた女性指揮者としては世界唯一の存在であった[12]

新交響楽団(現在のNHK交響楽団)は、ワインガルトナーの「演奏会では、妻と共に指揮する」という意向をいったんは拒否した[13]。しかし、ワインガルトナーが重ねて下記のように言ったことで、カルメンの指揮を受け入れた[13]

諸君は〔ママ〕私を高く買ってくれるなら、その私が保証する彼女にも指揮させてはどうか。 — フェリックス・ワインガルトナー[13]

1937年に来日したカルメンが、新交響楽団を指揮した曲目は下記の通り[9]

来日したカルメンの指揮について、東京・日比谷公会堂で実演を聴いた音楽評論家の評(演奏会直後に朝日新聞に掲載)、カルメンと共演した新交響楽団 楽員の評(演奏会から10年後の回想)が、それぞれ残っている。

博士夫人の指揮は予想以上に立派なものであつた。オーケストラが二つの交響曲の演奏に全力を尽くしてしまつたためか、演奏そのものは盛り上がる力にすこしく欠けてはいたけれど、指揮者の女性であることを聴いているうちに人々に忘れさせた点からだけでも指揮者としての夫人の技量の優秀なことは明白であつたといえよう。 — 大田黒元雄(音楽評論家)、昭和12年(1937年)5月31日、日比谷公会堂での演奏会評(演奏会直後の朝日新聞〈主催社〉に掲載された)、[10]
又ワインガルトナーのカルメン夫人も指揮され未完成を上演されたが、黒絹の背広風の洋服にその丸々とした体を包んだ夫人は、学生のような指揮ぶりで、その人柄の誠実さといかにもドイツ風な重々しさの感じられる演奏をされたが、その練習の時など終始ワインガルトナーは教え子の手引きをされるように見て居られた。 — 小森宗太郎1900年-1975年[14]。新交響楽団 首席ティンパニ奏者として、1937年にカルメンと共演。戦後は、NHK交響楽団 首席ティンパニ奏者[14])、演奏会から10年が経過した昭和22年(1947年)の回想、[15]

レコーディング

1937年の訪日時

ワインガルトナーの初レコーディングは、1910年に自作の歌曲を、3番目の夫人(諸説ある)でもあるメゾ・ソプラノ歌手ルシール・マルセルの共演を得て録音したのが最初である。1923年にはオーケストラを指揮してのレコーディングを開始。以後、ワインガルトナーの残した録音は、米コロムビアに残した若干数を省くとすべてEMI(英コロムビア時代も含める)からのリリースである。1999年に、新星堂東芝EMIの企画で、ワインガルトナーのEMI録音をすべて網羅した24枚組のCDセットを販売した他、現在では、代表的な録音がナクソス・ヒストリカルやオーパス蔵から異なる趣向の音質でもリリースされている。

作曲家としてのワインガルトナー

7曲の交響曲管弦楽曲、いくつかのオペラ室内楽などが残され、交響曲や管弦楽曲、室内楽曲には録音も存在する。師であったライネッケや、曲を演奏会で積極的に取り上げたブラームスの影響を多分に受け、時代からすれば比較的明快な和声と堅固な構成に支配された作品が多数を占める。現在録音されたワインガルトナーの作品のうち主だったものはバーゼル交響楽団をマルコ・レトーニャが指揮しcpoレーベルに録音した交響曲、管弦楽曲集である。この一連の録音によって、少しずつではあるが作曲家としての再評価がなされている。なお下記のように来日以前からに日本を題材とした作品も書かれている。

ワインガルトナー賞

1937年の来日を通じ、日本の作曲家を世界に紹介する目的でワインガルトナー賞を設立することが決定。1939年1月までにワインガルトナー自ら応募作品の審査を行い、優等賞5人(尾高尚忠秋吉元作早坂文雄呉泰次郎大木正夫)と一等賞5人(松本民之助、田辺茂、安部幸明、江藤輝、松本頼則)、二等賞9人(露木次男、山田和夫江文也、斎藤多計雄、大高平一、大川八郎、小島和夫、大築邦雄、萩原利次、市川都志春)の作品が見出されている[16]。受賞者の中には、後に大成する作曲家も含まれた。表彰時には第一回とされていたが、直後に第二次世界大戦が始まり、第二回が開催されることは無かった。

主な作品

作曲

オペラ
  • 『シャクンタラ』作品9(1884)
  • 『マラウィカとアグニミトラ』作品10(1886)
  • 『ジェネシス』作品14(1892)
  • 『カインとアーベル』作品54(1914)
  • 『小人夫人』作品57(1916)
  • 寺子屋』作品64(1920)
  • 『親方アンドレア』作品66(1919)
  • 『背教者』作品72
交響曲
  • 第1番ト長調 作品23 (1898)
  • 第2番変ホ長調 作品29 (1901)
  • 第3番ホ長調 作品49 『オルガン付き』 (1908-1910)
  • 第4番ヘ長調 作品61 (1917)
  • 第5番ハ短調 作品71 (1926)
  • 第6番『悲劇的、1828年11月19日を偲んで』ロ短調 作品74(第2楽章はシューベルトの『未完成』の第3楽章のスケッチを下敷きにしたもの)(1929)
  • 第7番ハ長調 作品87 (1935-7)
室内楽
  • ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ニ長調 作品42-1
  • ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番嬰ヘ短調 作品42-2
  • 折りふしの綴り―ピアノのための8つの小さな叙情的描写 作品4
その他
  • 歌曲集『日本の歌』作品45 (1908)[17]
  • 『フジヤマ』(山部赤人和歌による)
  • 歌曲『羊飼いの日曜日の歌』
  • 歌曲『春の幻影』
  • 交響詩『リア王』

編曲

著作

  • Ratschläge für Aufführungen klassischer Symphonien. Band I, Beethoven 1906(「古典交響曲の演奏の為の助言 1. ベートーヴェン」:日本語版『ある指揮者の提言 ベートーヴェン交響曲の解釈』(糸賀英憲訳)音楽之友社、1965年。)
  • Ratschläge für Aufführungen klassischer Symphonien, Band II, Schubert und Schumann 1918[18](「古典交響曲の演奏の為の助言 2. シューベルトとシューマン」)
  • Ratschläge für Aufführungen klassischer Symphonien. Band III: Mozart 1923[19](「古典交響曲の演奏の為の助言 3. モーツァルト」)
  • 『闘争の一生 ワインガルトナア自伝』(大田黒元雄訳)第一書房、1940年。

脚注

出典

  1. ^ a b c d シュトラッサー (1977)、42頁。
  2. ^ a b シュトラッサー (1977)、43頁。
  3. ^ a b シュトラッサー (1977)、63頁
  4. ^ シュトラッサー (1977)、67頁。
  5. ^ a b シュトラッサー (1977)、68頁。
  6. ^ 逓信協会雑誌』逓信協会、1937年、62-63頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2776646/1/36 
  7. ^ a b NHK交響楽団40年史:1926-1966日本放送出版協会、1967年https://dl.ndl.go.jp/pid/2513571/1/47 
  8. ^ a b 02/03/1936 Mo, 16.30–ca. 18.30, Uhr ∙ Großer Saal, Wiener Symphoniker / Studer-Weingartner / Konrath”. ウィーン・コンツェルトハウス. 2025年9月23日閲覧。
  9. ^ a b NHK交響楽団40年史:1926-1966日本放送出版協会、1967年、47-48, 270, 312頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2513571/1/4 
  10. ^ a b 大田黒元雄フェリックス・ワインガルトナー」『名曲名演奏総覧』音楽之友社、1950年、46-49, 32頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2457348/1/208 
  11. ^ 久野梓遺稿集』久野三巴会、1939年、140頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1266285/1/90 
  12. ^ 毎日年鑑』(昭和13年版)毎日新聞社、1937年、378頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1117179/1/201 
  13. ^ a b c 宮沢縦一(音楽評論家)都市と音楽生活 5:東京」『1919~1938:音楽沸騰』サントリー音楽財団、1982年、74-89頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12432804/1/48 
  14. ^ a b 津田奈保子(大阪信愛学院短期大学 子ども教育学科) (2019). “戦後日本における器楽教育黎明期を支えた小森宗太郎の器楽教育論について ―教材、指導書、楽器改良を視点に―”. 論文集「人と環境」 (大阪信愛女学院短期大学) (12). https://www.osaka-shinai.jp/osiles/he12.html. 
  15. ^ 小森宗太郎「太鼓のかげから」『フィルハーモニー(昭和22年5月号)』NHK交響楽団、1947年、16-19頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12893377/1/11 
  16. ^ 日本音楽紹介のため創設、十九人に栄誉『東京日日新聞』(昭和14年1月25日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p798 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  17. ^ Japanische Lieder, op.45 - IMSLPによる楽譜
  18. ^ catalog.hathitrust
  19. ^ zvab.com

注釈

  1. ^ クラリネット奏者ベーレンドスはブラジルに到着して間もなく死去し、鬱の症状があったヴァイオリニストのクノールは、周りの監視があったにもかかわらず自殺をとげ、コントラバスの名手として有名であったエドゥアルト・マデンスキーは溺死した[2]
  2. ^ なお、ウィーンフィルが開催した送別会において、ワインガルトナーは「私が自分についてあえて主張し得るような優秀な人材」を後継者に望むと発言しており、団員の中にはこれに怒りを覚えるものもいた[4][5]

参考文献

  • オットー・シュトラッサー『前楽団長が語る半世紀の歴史 栄光のウィーン・フィル』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年。
  • 高橋昭「フェリックス・ワインガルトナー 著書と論文そして世界初の全曲録音とベートーヴェンの交響曲の前人未到の業績」『クラシック 続・不滅の巨匠たち 忘れえぬ名演奏家96人』音楽之友社、1994年。
  • 歌崎和彦『証言/日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、1998年。
  • 新忠篤「大指揮者ワインガルトナーの録音を辿って」『ワインガルトナー大全集 ライナーノーツ』新星堂、1999年。
  • 武川寛海「第九のすべて」日本放送出版協会、1986年

外部リンク


先代
カール・ムック
(総監督)
ベルリン宮廷歌劇場
楽長
1891年 - 1908年
次代
リヒャルト・シュトラウス
(総監督)
先代
ラウル・マーダー
ウィーン・フォルクスオーパー
総監督
1919年 - 1924年
次代
レオ・ブレッヒ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フェーリクス・ヴァインガルトナー」の関連用語

フェーリクス・ヴァインガルトナーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フェーリクス・ヴァインガルトナーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフェリックス・ワインガルトナー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS