ピース缶爆弾事件
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登山の趣味があった牧田は奥多摩の林道工事現場にダイナマイト庫が存在することに注目し、共産同叛旗派に爆弾闘争を提案。そして1969年9月中旬、牧田ら5人は自動車で奥多摩の工事現場からダイナマイト1箱を盗み出した。同じ頃、牧田は大企業から父に贈られた藤田嗣治のエッチングなど5-6点を自宅から盗み出し、同志の現ミヅマアートギャラリー代表三潴末雄(当時成城大学在学中)の仲介で大手画廊に売却し、200万円の現金を得た。 この200万円とダイナマイトを使い、共産同叛旗派グループの桂木行人(当時東京農工大学在学中)らが爆弾教本『栄養分析表』復刻版などを参考にして爆弾約100個を製造。この爆弾を牧田らが1969年10月21日までに赤軍派中央軍、共産同戦旗派など3つのグループに提供し、京都地方公安調査局爆破事件で使用された他、立命館大学や中央大学で使用され、さらに警視庁第8・第9機動隊宿舎爆破未遂事件やアメリカ文化センター爆破事件が引き起こされた(なおピース缶爆弾製造と同じ頃、牧田は吉田喜重監督の映画『煉獄エロイカ』でテロリスト役を演じている)。また、このピース缶爆弾は10・21国際反戦デーにおける街頭戦で赤軍派による自衛隊攻撃に使用されたものの、全てが不発に終わった。これは、爆弾の組立を担当した赤軍派のメンバーが誤って導火線の根元に接着剤をつけ、火がダイナマイトまで届かなかったためである。 その後、警視庁第8・第9機動隊宿舎爆破未遂事件やアメリカ文化センター爆破事件を含む一連の爆弾テロ事件の容疑者として、1973年3月、極左活動家の増淵利行ら18人が起訴されたが、公判継続中の1982年5月、牧田自ら「自分こそが真犯人」と名乗り出たため大騒ぎになった。この時、弁護団の中心人物として牧田に証言させたのが仙谷由人であった。 1983年5月19日、東京地裁は増淵ら統一組被告人たちに全員無罪を言い渡した。判決は増淵らの自白調書の信用性を否定しつつ、一方では"疑いが強く残るが犯罪の証明がない"との判断を示し、また若宮・牧田証言についても「証言内容が大ざっぱだったり不自然な点が多い」と退けた。また、1984年3月22日、東京地裁は分離組の被告人たちにも自白の信用性は認められないとの判断を示し、全員無罪を言い渡した。若宮・牧田証言については「両名がそれぞれの事件に関与している疑いは相当強い」としつつ「全面的には信用し難い」と無罪の根拠には採用しなかった。これに対して東京地検は控訴したが、1985年12月13日、東京高裁が地裁判決を支持し、増淵らの無罪が確定した。一方で、牧田の行為については既に公訴時効が成立していたため、検察は牧田を逮捕起訴することが叶わず、大失態となった。この裁判に関しては、もともと増淵らの被疑事実を裏付ける証拠に決め手が乏しく、検察側の立証にも粗が目立つため、裁判の行方が大いに注目を集めていた。 この「真犯人騒動」の頃、テレビ朝日の番組で牧田にインタビューを行った田原総一朗は「左翼というよりは、むしろ民族派的な体質が感じられた。彼は共産主義でも社会主義でもなく、アナーキスト的色彩はありながら、日本について強く憂えていると、私は感じ取った」「あるいは三菱の"天皇"だった父親への強烈な反発ということもあったのかもしれない」と述べている。
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