ピース川の戦い、シンシア・アン・パーカーの再捕獲: 1860年
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「テキサスのインディアン戦争」の記事における「ピース川の戦い、シンシア・アン・パーカーの再捕獲: 1860年」の解説
1860年12月18日、テキサス州フォード郡のマーガレット町近く、ミュール・クリークで起こったことについては2つのはっきり異なる説がある。公式の記録では、ローレンス・S・ロスとその部隊がコマンチェ族のノコニ隊を急襲することに成功し、その指導者であるペタ・ノコナを含みノコニ隊を消し去った。しかし、クアナ・パーカーに拠れば、その父(ペタ・ノコナ)はその日は居らず、殺されたコマンチェ族は事実上、バッファローの皮を干し、肉を乾燥させていた女性と子供ばかりだったということである。いずれにしても12月18日の夜明けにロスの指揮するレンジャーズと民兵隊がピース川の支流であるミュール・クリークで宿営していたコマンチェ族を見つけて驚かせたということでは一致している。一人の女性を除いて全員が殺されたが。その女性は白人だと認識され、生き残らされた。彼女は後にシンシア・アン・パーカーだと分かった。他にも生存者がおり、ロスに救われた10歳の少年とシンシア・パーカーの赤ん坊の娘、プレーリー・フラワーだった。 シンシア・アン・パーカーはその白人家庭に戻され、その家族は彼女が夫や子供のもとに戻らないよう密に見張っていた。シンシア・パーカーの娘がインフルエンザで死んだ後、その失くした息子を見つけるためにコマンチェ族に戻ろうとしたのを彼女の守護者達が認めなかったので、食を拒んで餓死した。
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