ニュルンベルク裁判中のインタビュー
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「エルンスト・カルテンブルンナー」の記事における「ニュルンベルク裁判中のインタビュー」の解説
ニュルンベルク裁判中のレオン・ゴールデンソーンのインタビューの中で「私はヒムラーの命による残虐行為から人々が連想するような粗野で扱いにくい人間ではない。私はそれらの行為とは一切無関係だ」「私は第二のヒムラーだと思われている。そんなことはないのだが。新聞は私を犯罪者扱いしている。誰も殺していないというのに」と述べた。 ニュルンベルク裁判については次のように批判した。「検察はドイツがアメリカに宣戦布告したと主張している。純法律的にいえばそれは真実だが、それはアメリカ軍が宣戦布告なしで海上でドイツ軍を先制攻撃したからに他ならないではないか。たしかアメリカの艦船は武器を搭載してドイツの潜水艦を砲撃すべしというルーズヴェルトの命令があったはずだ。このような事情から各国への侵略戦争の謀議での起訴が不当であることはたびたび証明されている。独房の私は証拠資料や歴史書の助けを借りることなく、自分の記憶だけを頼りにこれらの問題に専念しなければならない。」「日々被告側が新たな主張をするのを拒んでいる法廷のやり方だって似たようなものだ。毎日我々の答弁を崩したり制限したりする判断が下されているのだから」「いまロシア人も同じ法廷にいて侵略戦争を犯した廉で我々を起訴している。実際に侵略戦争を画策したのは彼らの方だというのに」。 また次のように述べて、ナチス政権によるナチ化政策は連合国による非ナチ化政策やソ連の赤化政策ほど圧政的ではないと弁護した。「ワイマール共和国の崩壊後、旧体制を葬り去り、民主政体の支持者を権力の座から合法的に遠ざけるため法律が必要になった。ロシア革命後、共産党は非共産党員を一人残らず銃殺することによってそれを達成した。もっとあからさまに邪魔者を排除したわけだ。ナチ党が政権を取った1933年には銃殺という事態は極めて稀だった。」「1933年に警察官のナチ党員への入れ替えがあったが、ベルリンでは21%、バイエルンでは40人程度にとどまった。その程度で敵対者を根絶やしにしたと言えるだろうか。それにそういう警官が罷免されたのは素行が悪かったり、ナチ党の閣僚に対して侮辱的な言動に及んでいたからなのだ」。 ヒトラーについては次のように述べた。「独裁国家はリーダーが個人的な感情に流されないタイプであればうまくいくのだが、気にいらないことを言われて腹を立てるタイプではうまくいかない。リーダーが誰も信用しなかったり、自分の願望に負けて判断力を失ったあげく、自分自身を見失ったりしては独裁国家は絶対にうまくいかない。たとえばヒトラーがアメリカと平和にやっていくのは無理であり、ソ連はドイツとの戦争に向けて邁進していると思い込んでいるとしよう。このとき、誰かが貴方の考えは間違いであり、アメリカは多分和平を求めていると言ったとする。しかしヒトラーは耳を貸さないだろうし、両手の拳でテーブルを叩きつけて相手を黙らせるだろう。ヒトラーと冷静に話し合うことは不可能だった。ヒトラーは数字に関してはすばらしい記憶力の持ち主で各国の軍艦の排水トンを一隻ずつ正確に記憶していた。数字については海軍や財務の専門家よりずっと詳しかった。」「私が知る限りヒトラーは民主主義の原則を全否定していたわけではない。それどころかある種民主主義に好意的だった。過去10年間ナチ党は完全に一党独裁主義だったが、ヒトラーの最終目標は完全な議会政治だったのだから。まあ完全とは言えないが。つまりアメリカの大統領制のようにリーダーシップの原則は常に存在するが、当のリーダーは概ね民主主義の原則をよりどころとするということだ」。 ヒムラーについては次のように述べた。「ヒムラーはサディスティックというのでなく、ケチでつまらない人間だった。彼は元学校教師でいつまでも教師根性が抜けなかった。他人を罰することに快感を覚えていたのだ。教師が子供に必要以上に鞭を打ち、そこから快感を得るのと同じように。これは真の意味でのサディズムと異なる。つまりヒムラーは他人を教育して向上させることが自分の義務と思っていたのだ。このことと強制収容所でのユダヤ人虐殺は無関係だ。虐殺が起こったのはヒムラーが奴隷のようにヒトラーに追従したからだと私は思う」、「ヒムラーはハイドリヒとダリューゲのライバル関係を逆手にとり、どちらが権力の座に近づくことも許さなかった。おかげでヒムラーはこの権力マニアたちから身を守ることができたのだ。何しろヒムラーは当時まだ元気だったダリューゲや抜け目のないハイドリヒに比べてずっと単純な人間だったのだから」。 ハイドリヒについては次のように述べた。「彼は凄まじいまでの野心家で権力欲の塊だった。底なしの権力欲とはあのことだ。非常に抜け目がないうえに狡猾な人間だった」、「ハイドリヒはボルマンと親しいふりをし、各省の大臣とも親交を結んだ。ハイドリヒとボルマンは互いを信用していなかったが、どちらも相手のおかげで随分得をしていた。ヒムラーはボルマンのライバルであり、ハイドリヒは漁夫の利を得ていた。ハイドリヒはボルマンと親しいふりをしたが、ボルマンはハイドリヒがヒムラーの追従者であることを知っていた。ボルマンはハイドリヒを利用しようとし、ヒムラーはなりゆきを見守っていた。ヒムラーとボルマンの間を行ったり来たりしながらハイドリヒは次第に頭角を現し、ついにヒトラーから直々に認められるようになった。」「ハイドリヒが早い段階でヒトラーの目に止まったのは、優れた組織力と正確な報告能力のおかげだ。この二つがヒトラーの関心事だった」、「ノイラートが罷免された後、ハイドリヒはボルマンの力添えでノイラートの後任のボヘミア=モラヴィア総督になった。大臣の地位を手に入れたわけだ。一方ヒムラーは1941年末の時点ではさほど高い地位にあったわけではなかった。ハイドリヒが自分より地位の高い大臣の地位に就いたことを知って、ヒムラーがどんな気持ちになったかは想像がつくだろう。次第に精神を病み始めていたダリューゲもしかりだ。彼は秩序警察長官のままだったが、それまではハイドリヒと同等の地位にあったのだから。」。ハイドリヒの暗殺にヒムラーが関与していたと思うかという質問には「それはない。ただハイドリヒの暗殺がヒムラーにとって吉報だったのは確かだ」と述べた。
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