ニュルンベルク裁判中のインタビューとは? わかりやすく解説

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ニュルンベルク裁判中のインタビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:23 UTC 版)

エルンスト・カルテンブルンナー」の記事における「ニュルンベルク裁判中のインタビュー」の解説

ニュルンベルク裁判中のレオン・ゴールデンソーンインタビューの中で「私はヒムラーの命による残虐行為から人々連想するような粗野扱いにくい人間ではない。私はそれらの行為とは一切無関係だ」「私は第二ヒムラーだと思われている。そんなことはないのだが。新聞は私を犯罪者扱いしている。誰も殺していないというのに」と述べたニュルンベルク裁判については次のように批判した。「検察ドイツアメリカ宣戦布告した主張している。純法律的にいえばそれは真実だが、それはアメリカ軍宣戦布告なしで海上ドイツ軍先制攻撃したからに他ならないではないか。たしかアメリカ艦船武器搭載してドイツ潜水艦砲撃すべしというルーズヴェルト命令があったはずだ。このような事情から各国への侵略戦争謀議での起訴不当であることはたびたび証明されている。独房の私は証拠資料歴史書助け借りことなく自分記憶だけを頼りにこれらの問題専念しなければならない。」「日々被告側新たな主張をするのを拒んでいる法廷やり方だって似たようなものだ。毎日我々の答弁崩した制限したりする判断下されているのだから」「いまロシア人も同じ法廷にいて侵略戦争犯した廉で我々を起訴している。実際に侵略戦争画策したのは彼らの方だというのに」。 また次のように述べてナチス政権によるナチ化政策は連合国による非ナチ化政策ソ連赤化政策ほど圧政的ではないと弁護した。「ワイマール共和国崩壊後旧体制葬り去り民主政体の支持者権力の座から合法的に遠ざけるため法律必要になった。ロシア革命後共産党は非共産党員一人残らず銃殺することによってそれを達成した。もっとあからさまに邪魔者排除したわけだ。ナチ党政権取った1933年には銃殺という事態は極めて稀だった。」「1933年警察官ナチ党員への入れ替えがあったが、ベルリンでは21%、バイエルンでは40程度とどまった。その程度敵対者根絶やしにしたと言えるだろうか。それにそういう警官罷免されたのは素行悪かったり、ナチ党閣僚に対して侮辱的な言動及んでいたからなのだ」。 ヒトラーについては次のように述べた。「独裁国家リーダー個人的な感情流されないタイプであればうまくいくのだが、気にいらないことを言われ腹を立てるタイプではうまくいかないリーダー誰も信用しなかったり、自分願望負けて判断力失ったあげく、自分自身見失ったりしては独裁国家絶対にうまくいかない。たとえばヒトラーアメリカ平和にやっていくのは無理であり、ソ連ドイツとの戦争向けて邁進していると思い込んでいるとしよう。このとき、誰かが貴方の考え間違いであり、アメリカは多分和平求めていると言ったとする。しかしヒトラー耳を貸さないだろうし、両手の拳でテーブル叩きつけて相手黙らせるだろう。ヒトラー冷静に話し合うことは不可能だったヒトラー数字に関してすばらし記憶力持ち主各国軍艦排水トン一隻ずつ正確に記憶していた。数字については海軍財務専門家よりずっと詳しかった。」「私が知る限りヒトラー民主主義原則全否定していたわけではないそれどころある種民主主義好意的だった過去10年ナチ党は完全に一党独裁主義だったが、ヒトラー最終目標は完全な議会政治だったのだから。まあ完全とは言えないが。つまりアメリカの大統領制のようにリーダーシップ原則は常に存在するが、当のリーダー概ね民主主義原則よりどころとするということだ」。 ヒムラーについては次のように述べた。「ヒムラーサディスティックというのでなく、ケチでつまらない人間だった。彼は元学校教師いつまで教師根性抜けなかった。他人罰することに快感覚えていたのだ。教師子供必要以上に鞭を打ち、そこから快感を得るのと同じように。これは真の意味でのサディズム異なる。つまりヒムラー他人教育して向上させることが自分義務思っていたのだ。このことと強制収容所でのユダヤ人虐殺無関係だ虐殺起こったのはヒムラー奴隷のようにヒトラー追従したからだと私は思う」、「ヒムラーハイドリヒダリューゲライバル関係逆手にとり、どちらが権力の座近づくことも許さなかった。おかげでヒムラーはこの権力マニアたちから身を守ることができたのだ。何しヒムラー当時まだ元気だったダリューゲ抜け目のないハイドリヒ比べてずっと単純な人間だったのだから」。 ハイドリヒについては次のように述べた。「彼は凄まじいまでの野心家権力欲の塊だった。底なし権力欲とはあのことだ。非常に抜け目がないうえに狡猾な人間だった」、「ハイドリヒボルマン親しいふりをし、各省大臣とも親交結んだハイドリヒボルマン互い信用していなかったが、どちらも相手おかげで随分得をしていた。ヒムラーボルマンライバルであり、ハイドリヒ漁夫の利得ていた。ハイドリヒボルマン親しいふりをしたが、ボルマンハイドリヒヒムラー追従者であることを知っていた。ボルマンハイドリヒ利用しようとし、ヒムラーなりゆき見守っていた。ヒムラーボルマンの間を行ったり来たりしながらハイドリヒ次第頭角現し、ついにヒトラーから直々に認められるようになった。」「ハイドリヒ早い段階ヒトラーの目に止まったのは、優れた組織力正確な報告能力のおかげだ。この二つヒトラー関心事だった」、「ノイラート罷免された後、ハイドリヒボルマン力添えノイラート後任ボヘミアモラヴィア総督になった大臣地位手に入れたわけだ。一方ヒムラー1941年末の時点ではさほど高い地位にあったわけではなかった。ハイドリヒ自分より地位の高い大臣地位就いたことを知ってヒムラーがどんな気持ちになったかは想像がつくだろう。次第精神病み始めていたダリューゲもしかりだ。彼は秩序警察長官のままだったが、それまでハイドリヒ同等の地位にあったのだから。」。ハイドリヒ暗殺ヒムラー関与していたと思うかという質問には「それはない。ただハイドリヒ暗殺ヒムラーにとって吉報だったのは確かだ」と述べた

※この「ニュルンベルク裁判中のインタビュー」の解説は、「エルンスト・カルテンブルンナー」の解説の一部です。
「ニュルンベルク裁判中のインタビュー」を含む「エルンスト・カルテンブルンナー」の記事については、「エルンスト・カルテンブルンナー」の概要を参照ください。

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