ニュルンベルク裁判裁判長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 15:54 UTC 版)
「ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)」の記事における「ニュルンベルク裁判裁判長」の解説
ヨーロッパでの戦争が終わった後、米英ソ首脳はゲーリング以下ドイツ政府幹部らを戦犯として裁判にかけることを決定。事後法「ロンドン憲章」が制定され、ニュルンベルク裁判が開廷されることになった。イギリスの首席判事はローレンスに決まった。 1945年10月に連合国四国の裁判官が初めて顔合わせし、裁判長選出が行われた。英米仏三カ国の支持を受けてローレンスが裁判長に選出された。アメリカ首席検事ロバート・ジャクソンがアメリカ首席判事フランシス・ビドル(英語版)にローレンスを支持するよう求めていたことが大きかった。ジャクソンの考えでは、アメリカは目立ちすぎなので弁える必要があり、しかしフランスは裁判長になるには戦時中の役割が小さすぎるし、ソ連はそもそもナチスを裁く権利があるのか怪しい、となればイギリスしかないとのことだった。 その後、1946年9月30日の判決まで裁判長としての職責を勤め上げた。ゲーリングやリッベントロップら12名に死刑、ヘスやシュペーアら7名に禁固刑、シャハトやパーペンら3名に無罪判決を下した。判決の日の翌日にもイギリスへの帰国の途に就いた。無名な裁判官に過ぎなかった彼はこの裁判のおかげで一躍時の人となったが、彼はチヤホヤされることには関心がなかったという。
※この「ニュルンベルク裁判裁判長」の解説は、「ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)」の解説の一部です。
「ニュルンベルク裁判裁判長」を含む「ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)」の記事については、「ジェフリー・ローレンス (初代オークシー男爵)」の概要を参照ください。
- ニュルンベルク裁判裁判長のページへのリンク