ニュルンベルク刑務所長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 23:25 UTC 版)
「バートン・アンドラス」の記事における「ニュルンベルク刑務所長」の解説
ヨーロッパでの戦争が終わった後、ゲーリング以下ナチスの幹部級捕虜が収容されていたルクセンブルク・バート・モンドルフ(ドイツ語版)のパレス・ホテルに作られた刑務所(アシュカン収容所)の所長に任じられた。「ロンドン憲章」締結直後、被告人たちをニュルンベルクへ移送し、そこで引き続き刑務所長を務めよとの命令を受けた。 1945年9月に被告人たちをニュルンベルク刑務所(ドイツ語版)へ移送した。移送の際にカイテル(元帥)やヨードル(上級大将)といった高級将校を起立させ、「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告のうえ階級章を剥奪するといった凌辱を加えている。 ニュルンベルク刑務所では心理学者でユダヤ系将校のグスタフ・ギルバート大尉を刑務所付心理分析官に任じ、被告人の精神状態を記録に取らせた。ルドルフ・ヘスが記憶喪失を主張した際には激怒し、「ヘスの嘘つきめ!仮病使いのイカサマ野郎め!」「もしあいつが記憶を無くしたのならなぜ英語の話し方を覚えている?」と罵った。 1946年2月にゲーリングと敵対するシュペーアがギルバートを通じて「被告人が一緒に食事するのを許せばゲーリングが叱咤激励して他の被告人を従えてしまいます」と提案してきた際には、これを採用して、ゲーリングを一人で食事させるよう看守に命じた。これについてゲーリングは「ここにいるナチ党員の中で私が一番の実力者だからと言って最も危険な人物とは限らんじゃないか。あの大佐は自分が歴史的な人物を相手にしていることが分かっておらんのだ。いい意味か悪い意味かは別にして我々は歴史に名を残す人間だぞ。それに比べてあいつは何だ?ただの雑魚じゃないか」と愚痴った。 管理能力はお粗末でよく収容者に自殺された。1945年10月5日には収容者の一人レオナルド・コンティ(ドイツ語版)が、10月25日にはロベルト・ライが、そして死刑執行直前の1946年10月15日にゲーリングが自殺した。 それでも任務を終えた際にはアメリカ首席検事ロバート・ジャクソンから「大佐は困難な仕事に挑んだ素晴らしい人物だ。勤勉かつ聡明で、あらゆる点で自己の信念に忠実だった。」と称賛の言葉を贈ってもらえた。
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