トレーナーとしての活躍
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馬小屋を改造したジムで、海老原と二人三脚で"世界チャンピオン"を目指し、5年後の1963年、遂に海老原をWBA・WBC世界フライ級王者に導く。その後は西城正三(WBA・フェザー)、具志堅用高(WBA・ライトフライ)、上原康恒(WBA・スーパーフェザー)、渡嘉敷勝男(WBA・ライトフライ)、鬼塚勝也(WBA・スーパーフライ)、勇利アルバチャコフ(WBC・フライ)、オルズベック・ナザロフ(WBA・ライト)、佐藤修(WBA・スーパーバンタム)、坂田健史(WBA・フライ)、と国内最多10人の世界チャンピオンを育てた。佐藤修と坂田健史は金平の死去後にチャンピオンになったが、高校アマボクシングで凡庸な戦績だった彼らの才能を見出し、ジムに入門させたのは金平である。 一時期草加市にジムを構えていたが、渋谷区の代々木駅近くに移転。草加のジムは所属選手の実父で実業家の有澤二男へ売却し草加協栄ジム(現草加有沢ボクシングジム)となった。 プロモーターとしてまとめた世界タイトルマッチ級の試合は100を超え、米国のドン・キングになぞらえ「日本のドン」、あるいは「顔役」などの異名を取り、自らは「業界の暴れん坊」を自称、「強いヤツが勝つんじゃない。勝ったヤツが強いんだ!」という言葉を信念とした。日本テレビとの衝突を切っ掛けとして東京12チャンネル(現テレビ東京)の運動部長・白石剛達に接近し1971年、『KO(ノックアウト)ボクシング』を放送開始させる。テレビ局から数千万円の放映料を引き出す手法にいち早く目を付けたのも金平で、具志堅を「100年に一人の天才」というキャッチフレーズで売り出すなど、「名伯楽」といわれる一方、錬金術の巧みさと、凄まじいヤリ手ぶりでも知られた。チャンピオンの防衛戦の挑戦者を決めるには、海外の海千山千のプロモーターを相手にし有利に選ぶという手腕が必須となるが、金平は戦いやすい相手を見つけてくるという手腕に長けていた。また軽量級は海外ではビジネスとして成立しないから、防衛戦は全部日本でやるというビジネスを確立させた。そのヤリ手ぶりは凄まじく、先の防衛戦をどんどん売り込んでお金を先に受け取る「金平商法」は、しばしばチャンピオンに「(無理な日程を組まされ)殺される!」などとトラブルを起こした。1972年には王座を明け渡した西城を擁してキックボクシングの興行にも乗り出す。1976年、アントニオ猪木対モハメド・アリ戦にも関与[出典無効]。同年、日本人女子プロボクサー第1号となった高築正子を女子プロボクシングが解禁された米国渡航を手引きする。1978年、TBSで『ガッツファイティング』放送開始。全日本ボクシング協会から利敵行為だと除名され、同名の「第二協会」を結成し後の協会会長木村七郎らと対立した(黒い霧事件)が、1980年、両協会の和解に伴う会長選で2期目を狙っていた元同僚三迫仁志を退けて当選し全日本ボクシング協会会長に就任した。 また、田中敏朗と共にパブリック・マネージャー制度導入に尽力。ボクシングのみならず、「協栄コンツェルン」の総帥として多くの事業に手を出した。パチンコ店の他(競泳選手育成を中心とした)協栄町田スイミングスクール(1980年7月オープン)の経営にも側近・愛弟子の若林敏郎(後の協栄スポーツクラブ十日市場オーナー)を用いて取り組んだ。桂一郎に「ほかに収入源を探せ」と指示して健康食品事業もさせた。歌手・藤圭子をカムバックさせたい道楽家・藤原成郷に頼まれ、1981年8月、芸能界にも顔がきく金平が、藤のかつての所属事務所で芸能界でも迫力のある新栄プロダクションの社長・西川幸男(西川哲、西川賢の父)を説得し藤をカムバックさせた。金平は藤圭子カムバック劇のフィクサーだった。このため芸能界はズブの素人である藤原を社長とする芸能事務所・ニュージャパンプロダクションの会長として経営にも関与した。
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