トノサマバッタによる蝗害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:05 UTC 版)
古文献から、関東平野などでトノサマバッタによる蝗害が発生したことが推察されている。 近代では、明治初期に北海道で蝗害が発生したことが知られている。1875年(明治8年)9月27日、道東の太平洋沿岸を台風が直撃し、未曾有の大洪水を引き起こした。十勝川と利別川が合流するあたりでは膨大な樹木が流失した結果、広い範囲で沖積層が露出し、ここにヨシやススキなどイネ科の植物が生い茂る草原が出現した。さらに、その後の数年間好天が続いたため、トノサマバッタの大繁殖に適した環境が整った。 1879年(明治12年)からトノサマバッタ発生の兆しはあったが、本格的な大発生となったのは1880年(明治13年)8月のことである。このときは、発生したバッタの大群は日高山脈を越え、胆振国勇払郡を襲った。蝗害はさらに札幌を経て空知地方や後志地方へ至り、また別の群れは虻田へ達した。陸軍はバッタの群れに大砲を撃ちこむなどして駆除に務めたが、入植者の家屋の障子紙まで食い尽くし、各地で壊滅的な被害をもたらした。翌1881年(明治14年)にも再び大発生し、この年は渡島国軍川までバッタが進出した。当時の記録では、駆除のため捕獲した数だけで360億匹を超えたという。しかし、まだ入植が始まっていなかった十勝国では耕地が少なく、目立った被害は出なかった。 蝗害が津軽海峡を渡って本州へ波及することを懸念した中央政府はトノサマバッタの発生源の調査を命じた。14名の係官が派遣され、蝗害の被災地を辿ってバッタの群れがどこからやってきたのか現地調査を行った結果、冒頭に述べた十勝川流域の広大な草原に至った。これが日本で三番目に広い十勝平野の「発見」である。この報告を耳にした晩成社は十勝平野への入植を決め、これが十勝内陸への初めての本格的な入植となった。 蝗害はその後も続き、1883年(明治16年)には道南の日本海側まで達した。晩成社でもバッタの繁殖地の調査を行い、十勝川上流の然別で大繁殖地を発見している。開拓使ではアイヌも動員して繁殖地の駆除を行い、1884年(明治17年)には延べ3万人のアイヌが動員された。それでも蝗害は止まらず、北海道では翌年の予算に180億匹のバッタ幼虫の駆除費用を計上するはめになった。しかし、1884年(明治17年)9月の長雨によって多くのバッタが繁殖に失敗して死滅し、蝗害はようやく終息した。しかし、以降も昭和の初めまで断続的に観察された。 北海道の開拓地では、被災地への金銭的な補助の意味合いも兼ね、バッタの卵を買い取る制度があった。札幌市手稲区の手稲山口バッタ塚は、住民から買い集めたバッタの卵を砂地に埋めたところに建てられたものであるが、十勝地方にもバッタ塚が残されており、根絶を願った当時の住民の状況を今に伝えている。 1971年(昭和46年) - 1974年(昭和49年)、沖縄県の大東諸島でもトノサマバッタ群生相による蝗害が発生している。また、1986年(昭和61年) - 1987年(昭和62年)には鹿児島県の馬毛島でも3,000万匹のトノサマバッタが発生している。 21世紀には、2007年(平成19年)、供用直前の関西国際空港2期空港島でトノサマバッタが大量発生し、蝗害発生の条件となる群生相と見られる個体も見つかっている。環境農林水産研究所・食の安全研究部防除グループによると、6月9日には3,884万匹のトノサマバッタが確認された。大発生の原因は、天敵の居ない孤立した島のためと考えられている。関西国際空港側は、殺虫剤散布で防除(駆除)し、100万匹を割ったところで防除を打ち切った。最終的に、エントモフトラ属のカビ感染により、トノサマバッタの大発生は終息した。
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