北海道への入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:35 UTC 版)
「依田勉三#帯広の開拓」も参照 結婚式翌日の1883年(明治16年)4月10日、勝は開拓団の1人として横浜を発った。カネは姑から移住を許可されなかったことなどで出発が遅れ、5か月後の9月19日、父の親長、依田の末弟の依田文三郎らとともに横浜を発った。北海道の函館に到着後、馬車や蒸気船などを乗り継いで陸路、海、川をわたり、29日後の10月17日、下帯広村(のちの帯広市)に到着した。 十勝は当時の北海道で最奥の地のひとつであり、無人の荒野の開拓の苦労は、言語に絶するものだった。生活は食事や粗末な住宅をはじめ、すべてにおいて窮乏しており、医者も産婆もいなかった。夏には大量のカやブヨに襲われた。イナゴなど虫害に加えて(蝗害#トノサマバッタによる蝗害も参照)、冷害、洪水、風土病、野火などが、次々にカネたちを襲った。後に遺された勝とカネの日記には「霜、雪の如し」「昨夜より甚だ寒し」「炬燵のマワリ及び板囲いの隙間をはる」など、当時の苦労ぶりが記されている。 晩成社の開拓事業がそのようなが困難に瀕したときに、人々を慰め、励ますことも、カネの役目のひとつであった。開拓の苦難に嘆き、時に涙する者がいると、カネは「そんな弱音を吐いちゃだめ」「さぁ、一休みして、皆で歌でも歌いましょう」などと、柔らかく元気づけた。せっかく育てた農作物が虫害で滅び、皆が不満を爆発させても「私は我慢する」「失敗は成功のもと」と言って、自然と戦い続けた。依田たち晩成社三幹部も、女性たちからの文句の対応には苦労し「おかねさん、頼む」とカネを頻繁に頼った。また仲間に衣服を分けたり、体調を崩した者に栄養のある食料を分けたりするなど、皆の生活全般を支えた。 1885年(明治18年)6月、カネは長女を出産直後から、マラリアに苦しめられた。マラリアは移民たち皆を苦しめる病気であったが、カネは幸いにも抗マラリア薬であるキニーネを譲り受けていたために治癒し、さらに多くのマラリア患者を救うことができた。1893年(明治26年)には帯広に医師が着任したが、マラリアが流行すると、多くの患者がカネのもとにキニーネを求めて駆け込むのが常となった。 依田勉三の妻リクはカネよりも年下であり、過酷な開拓にしばしば根を上げて「北海道を去る」と言い出しており、カネはリクが1886年(明治19年)に帯広を去るまで、彼女を助ける役でもあった。同1886年には渡辺勝と鈴木銃太郎がともに、帯広から20キロ離れた西士狩村(のちの芽室町)へ開墾に出向き、晩成社は幹部2人を欠いたことから、なおのことカネが皆を支えなくてはならなかった。
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