帯広の開拓とは? わかりやすく解説

帯広の開拓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 22:56 UTC 版)

依田勉三」の記事における「帯広の開拓」の解説

明治16年1883年)、帯広入った一行をまず鹿猟の野火襲い次にイナゴの大群襲った食糧としてアワ蒔き付けするも天候不順やウサギ・ネズミ・被害遭い殆ど収穫できなかった。 明治17年1884年)もまた、天候優れず開墾遅々として進まず開拓団の間に絶望広まっていた。勉三は米一年分を大津現在の豊頃町)に貯蔵した帯広への輸送困難な状況であった食糧不足打開するため、当縁郡当縁生花(とうべりぐん とうべりむら おいかまない現在の広尾郡大樹町)に主畜農業経営する明治18年1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造目指した。馬鈴薯澱粉研究し農耕機械化試みるが何れも上手く行かず当初移民は3戸にまで減少した明治25年1892年)頃には状況漸く好転し食糧足り小豆大豆収穫目処がつくようになった当初晩成社設立当たって15年1万町歩土地開墾しようとの目標掲げていたが、目標には遠く及ばず30町歩開墾するのに10年要す有様であった明治25年1892年11月の佐二平・勉三兄弟叙勲から奮起し晩成社事業拡大した会社組織合資会社とし社名晩成合資会社改める。函館牛肉店を開業し当別村畜産会社作る帯広には木工場を作り然別(しかりべつむら 現在の音更町)に牧場開いた明治30年1897年)に社有地の一部宅地として開放する多く移民殺到した明治35年1902年)にはバター工場創業。他にも缶詰工場練乳工場等もあった。勉三と晩成社手掛けた事業何れも現在の十勝帯広根付く産業となった当時晩成社経営上手く行かなかった。 大正5年1916年)に売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場売却する事によって晩成社活動事実上休止する大正14年1925年)には勉三が中風症に倒れ9月には勉三の看病をしていた妻が亡くなり12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目の自宅息を引き取った享年73。勉三の死後昭和7年1932年)に晩成合資会社解散し翌年昭和8年1933年帯広北海道7番目に市制施行した。勉三は、その死の間際晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。

※この「帯広の開拓」の解説は、「依田勉三」の解説の一部です。
「帯広の開拓」を含む「依田勉三」の記事については、「依田勉三」の概要を参照ください。

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