帯広での教育とは? わかりやすく解説

帯広での教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:35 UTC 版)

渡辺カネ」の記事における「帯広での教育」の解説

渡辺勝カネたちとともに北海道へ渡ってきた一団中には当時わずか2歳だった子どももいた。子どもたちは親たちとともに未開拓過酷な生活環境強いられているうえに、教育を受けることもできずにいた。カネ子どもたちを見かねて、かつて女学校教鞭をとった経験活かして勉強教えることを思い立った。勝もカネ意見賛成し移民してきた皆もこれに賛成した帯広到着した年の10月より、カネ私塾開き開拓余暇利用して移民の子どもたちに読み書き教えたカネ当時まだ若かったため、子どもたち大いはしゃいでカネのもとに集った私塾建物は、入植したばかりの開拓者たちが、ヤナギ木皮浸しにわか作りの縄で結んで作り上げた粗末な掘っ建て小屋であったが、カネ優しく教える声、子どもたち明るい声が、いつも朗らかに響いていた。教室はいつも賑やかであり、騒いだよそ見をしたりする子もおり、カネ教えるのは一苦労であった北海道の地では、先住民族であるアイヌの子どもたちが、髪も荒れ放題裸足走り回っていた。勝とカネは、キリスト教徒として信仰心深さから、アイヌ自分たちと同じ人間考えてアイヌの子どもたちにも勉強教えたアイヌの子どもたちはすっかりカネ懐きカネ甘えて離れようとしない子どももいたほどだった。人々はこのカネ教育感謝してカネ母親のように慕った。 またカネは、夫の勝とともに週に1度キリスト教集会自宅開いて聖書輪読なども行った宣教師たち頻繁にその場訪れており、その中にはアメリカ人宣教師であるピアソン夫妻の姿もあった。夫妻帰国後も、カネを励ます手紙送っていた。本州からの伝道師受け入れた。のちの講演では、日曜ごとに時間設けて聖書研究をしていたとも語っていた。 こうしたカネ教育は、1894年明治27年)に帯広市街の寺の説教所に寺小屋併設されるまで、約10年続けられた。これが帯広教育始まりとなったまた、こうしてカネのもとで勉強に励む子どもたち存在は、勝たち開拓者たちにとっても子どもたちのために開拓勤しまなけれならない」と、開拓への励みつながった

※この「帯広での教育」の解説は、「渡辺カネ」の解説の一部です。
「帯広での教育」を含む「渡辺カネ」の記事については、「渡辺カネ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帯広での教育」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帯広での教育」の関連用語

1
渡辺カネ 百科事典
2% |||||

帯広での教育のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帯広での教育のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの渡辺カネ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS