帯広への帰還と夫婦の別居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「帯広への帰還と夫婦の別居」の解説
1949年(昭和24年)4月、ふみ子は高松から帯広の実家に戻った。この時、三男の潔のみを連れて帰ったとの説と、3人の子ども全員を連れて帰ったとの説がある。8月には夫、博が国鉄を退職して帯広にやって来た。先にふみ子が三男のみ連れ帰ったとの説では、この時、博が上の二人の子どもを連れて帯広に来たことになっている。いずれにしても1949年8月以降、ふみ子の家族は帯広で生活を始めた。 ふみ子の父の野江豊作は、国鉄を退職した中城博の職探しに奔走する。結局、帯広商工学校の土木・建築科の教師の職が見つかり、10月から勤め始めた。帯広で心機一転、やり直しを図ろうとしたものの、プライドが高い博にとって、妻の実家に高校教師の職を世話されたことや、そもそも田舎である帯広での教師職自体に不満を持った。夫婦間の諍いは絶えず、この頃、博はしばしばふみ子のことを口論の末、殴っていたという。 1949年の年末、博は同僚の教師たちにしきりと利殖の話を勧めていた。この利殖の話は一種のねずみ講であった。高校教師の仕事もそこそこに、博は事務所を構えて金融関係の仕事を始めた。結局1950年3月には高校を辞めてしまう。しかし金融関連の仕事は上手く行かなかった。その後、博はふみ子の実家、野江家近くにあった建設会社で働くようになるが、そこでも問題を起こしている。上手く行かなかった金融関連の仕事や、建設会社で引き起こした問題の後始末は結局、ふみ子の実家の野江家が行った。また1950年1月にふみ子は堕胎をした。生活が苦しく、これ以上子どもを持つことは出来なかった。 教師を辞めた夫、博の生活は更に乱れていった。ほどなく博には愛人が出来た。結局1950年5月、ふみ子夫婦と仲人、そして両親ら親族が集まって話し合いがもたれ、夫婦の別居が決まった。
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