帯広での盲唖教育とは? わかりやすく解説

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帯広での盲唖教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 00:00 UTC 版)

岩元悦郎」の記事における「帯広での盲唖教育」の解説

岩元結婚機に新たに盲亜学校を開くことを発案した。これには当時北海道内盲学校聾学校北海道内に5か所しかなく、道東には皆無という事情があった。また妻を通じてキリスト教触れルカによる福音書15章にある「まよえる1匹の羊」が岩元心を打ったためでもあった。 同1937年4月岩元は妻ヒデと共に帯広訪れた岩元たちにとってはまった未知土地であり、貯金もなく、知人皆無であった。まず1軒の民家借りて帯広盲唖院」の看板出した新聞記事取り上げられたことで、27歳女性少女2人入学し、同1937年7月1日開校した。これが帯広および道東方面での特殊教育始まりとなった盲唖院の授業料無料とし、学校の設備教科書など、一切費用岩元自らが負担した市町村や団体から定期的な寄付もあったが、それ以上岩元自力稼いだ小樽盲学校マッサージ師の資格得ていたので、盲唖院には治療院看板出し午前中学校午後治療精を出した盲唖院の生徒徐々に増える一方で治療院仕事は捗らなかった。開校直後日中戦争開戦したこともあり、生活は苦しさ増した。しかし、生徒たち両親岩元信頼して子供預けることを思うと、「辞める」などとはいえず、「どんなことがあっても学校辞めない」と自分言い聞かせた1938年昭和13年)のクリスマス帯広受洗しキリスト教徒となった後年岩元の談によれば、生活が貧窮極め、「神様、私に患者よこしてください」と祈り続けると、マッサージの客が訪れ、「神様はいらっしゃる、俺の祈り聞いてくれた」と確信して受洗至ったという。 生徒増えたために学校だけでは足らず1942年昭和17年)に別に寄宿舎建物借りて移転し、生活はさらに苦しさ増した岩元マッサージの客の斡旋のため、帯広中の旅館回った夜中でも仕事依頼電話があると、飛び起きて駆けつけた。午前中授業午後寄付金集め生徒募集加えてマッサージ業で、深夜0時まで奮闘日々続いた酔った客に足蹴にされるなど苦難もあったが、この頃賀川豊彦著書『神による解放』を読み岡山孤児院設立者である石井十次存在知って大きな心の支えとなった帯広市長や有志が、「基金募って新し校舎建てる」と申し出たが、太平洋戦争勃発し、折角の話も頓挫してしまった。経営難続いたが、生徒多く農家であり、親たちが農作物届けてくれたので、岩元たちはどうにか生活を続けることができた。終戦直後1946年昭和21年)には、当時としては巨額10万円の寄付があり、窮状から救われた。

※この「帯広での盲唖教育」の解説は、「岩元悦郎」の解説の一部です。
「帯広での盲唖教育」を含む「岩元悦郎」の記事については、「岩元悦郎」の概要を参照ください。

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