帯広での盲唖教育
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岩元は結婚を機に、新たに盲亜学校を開くことを発案した。これには当時、北海道内の盲学校や聾学校は北海道内に5か所しかなく、道東には皆無という事情があった。また妻を通じてキリスト教に触れ、ルカによる福音書の15章にある「まよえる1匹の羊」が岩元の心を打ったためでもあった。 同1937年4月、岩元は妻ヒデと共に、帯広を訪れた。岩元たちにとってはまったく未知の土地であり、貯金もなく、知人も皆無であった。まず1軒の民家を借りて「帯広盲唖院」の看板を出した。新聞記事に取り上げられたことで、27歳の女性、少女2人が入学し、同1937年7月1日に開校した。これが帯広および道東方面での特殊教育の始まりとなった。 盲唖院の授業料は無料とし、学校の設備や教科書など、一切の費用を岩元自らが負担した。市町村や団体から定期的な寄付もあったが、それ以上は岩元が自力で稼いだ。小樽盲学校でマッサージ師の資格を得ていたので、盲唖院には治療院の看板も出し、午前中は学校、午後は治療に精を出した。 盲唖院の生徒が徐々に増える一方で、治療院の仕事は捗らなかった。開校直後に日中戦争が開戦したこともあり、生活は苦しさを増した。しかし、生徒たちの両親が岩元を信頼して子供を預けることを思うと、「辞める」などとはいえず、「どんなことがあっても学校を辞めない」と自分に言い聞かせた。 1938年(昭和13年)のクリスマスに帯広で受洗し、キリスト教徒となった。後年の岩元の談によれば、生活が貧窮を極め、「神様、私に患者をよこしてください」と祈り続けると、マッサージの客が訪れ、「神様はいらっしゃる、俺の祈りを聞いてくれた」と確信して、受洗に至ったという。 生徒が増えたために学校だけでは足らず、1942年(昭和17年)に別に寄宿舎の建物を借りて移転し、生活はさらに苦しさを増した。岩元はマッサージの客の斡旋のため、帯広中の旅館を回った。夜中でも仕事の依頼の電話があると、飛び起きて駆けつけた。午前中は授業、午後は寄付金集め、生徒募集に加えてマッサージ業で、深夜0時まで奮闘の日々が続いた。酔った客に足蹴にされるなど苦難もあったが、この頃に賀川豊彦の著書『神による解放』を読み、岡山の孤児院設立者である石井十次の存在を知って、大きな心の支えとなった。 帯広市長や有志が、「基金を募って新しい校舎を建てる」と申し出たが、太平洋戦争が勃発し、折角の話も頓挫してしまった。経営難が続いたが、生徒の多くが農家であり、親たちが農作物を届けてくれたので、岩元たちはどうにか生活を続けることができた。終戦直後の1946年(昭和21年)には、当時としては巨額の10万円の寄付があり、窮状から救われた。
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