セント・ニコラス号襲撃
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「リチャード・トーマス・ザーヴォナ」の記事における「セント・ニコラス号襲撃」の解説
同時期、ザーヴォナは部下の報告により、ポトマック川を巡回する合衆国(北軍)の砲艦ポーニー(英語版)の情報を得る。また、ボストンの貨客蒸気船セント・ニコラス号(St. Nicholas)がポーニーへの補給を担当していることも突き止めた。2隻の船舶の押収を目的とした襲撃を立案したザーヴォナは、バージニア州知事ジョン・レッチャー(英語版)にこれを報告し援助を求めた。計画は、まずはボルチモアにて大勢の南派市民を募集し、全員で客としてセント・ニコラス号に乗り込む。そしてポトマック川を航行中にこれを占拠し、コーン川(英語版)へ向かってバージニア側の岸から連合国軍の増援を搭乗させ、そのまま軍艦ポーニーを襲撃・制圧するというものだった。マシュー・フォンテーン・モーリー海軍中佐らを交えて行われた会議で検討された結果、作戦は実行可能と判断された。レッチャーは連合国海軍省に宛てて、ザーヴォナの襲撃隊のために武器と弾薬を用立てるように要請するとともに、陸軍省を通じてテネシー連隊から抽出した兵員600人と十分な武器をコーン川に用意するように要請した。また、装備の調達や協力者への報酬などに用いる準備金として1,000ドルを渡した。レッチャーは作戦が成功した暁にはザーヴォナに大佐への昇進を認めると約束し、協力者の募集にあたっては大佐という肩書を用いてもよいとした。ザーヴォナは元合衆国海軍機関科士官のジョージ・W・アレクサンダー海軍大佐(George W. Alexander)と共にボルチモアへと潜入し、準備にあたった。1861年6月28日、民間人に扮した襲撃隊員30人がセント・ニコラス号へと乗り込んだ。彼らは当局の注意を引かないように、1人ずつ別々に乗船手続きを行い、武器も携行していなかった。出港時、セント・ニコラス号には一般の乗客も含めておよそ60人が乗り込んでいた。 乗客の中には、小綺麗な服を着て、フランス訛りの強い英語で話す若い女性と、彼女の兄だという厳つい髭面をした男の2人組がいた。女性はラ・フォルテ(Madame LaForte)と名乗り、ワシントンで帽子の販売事業を始めようとしているのだと語った。ラ・フォルテはいくつかのトランクを持ち込んでいたが、伝えられるところでは、彼女に見惚れた事務長は一番大きな船室を用意し、水夫らに命じてトランクを運び込ませたという。彼女は船員や男性乗客らにフランス訛りの英語で気さくに話しかけていた。この時、目元と頬にヴェールをかけ、扇を開いていて、顔を正面からは見られないように振る舞っていた。また、唇には真っ赤なルージュを引いていた。ラ・フォルテは兄と腕を組んで酒場からダンスホールまでを練り歩き、デッキでは大きな扇を開いては「スペイン人の踊り子」のように振ってみせた。その一見して品のない振る舞いに女性客らは気分を害していた一方、船員の中には彼女にキスしようと試みるものまであったという。 真夜中、ポイント・ルックアウト(英語版)のドッグに停泊した時、初老の紳士を含む数人の男性客が乗り込んだ。 1910年に行われたインタビューで、当時襲撃隊に所属したジョージ・ワッツ元中尉(George Watts)は、船内にザーヴォナの姿が見当たらないので、大佐は船に乗りそこね、作戦は失敗に向かっているのではないかと不安になったと回想している。しかし真夜中を回る頃、ラ・フォルテの兄と称していた男、アレクサンダー大佐が彼の元を訪れ、「隣の船室にいる」と伝えた。ワッツが隣の船室に向かうと、既に他の襲撃隊員は集合し、ラ・フォルテ、すなわち女装したザーヴォナがドレスやかつらを脱ぎ捨て、真新しいズアーブ兵の軍服に着替えているところだった。運び込まれたトランクには、カットラス、リボルバー、カービン銃が収められていた。この後、ザーヴォナが「武装した30人の男が乗り込んでいる」と伝えると、船長はただちに降伏した。 制服姿のザーヴォナがデッキへと出ると、ポイント・ルックアウトで乗り込んだ初老の紳士がかつらと帽子を脱ぎ捨てた。彼の正体はジョージ・N・ホリンズ海軍中佐(George N. Hollins)で、作戦の成功を確かなものとするべく、部下と共に派遣されたのである。彼ら連合国海軍将兵の手でセント・ニコラス号はコーン川へと向かった。6月29日早朝、コーン川にて増援30人(テネシー兵らの到着は遅れていた)と合流し、この際にボルチモアから乗り込んだ一般乗客らは全ての手荷物を持って退去することが認められた。 コーン川では、砲兵陣地との間で起こった砲撃戦の最中、船長が狙撃され戦死されたため、軍艦ポーニーが葬儀のためにワシントン海軍工廠へと向かったことがザーヴォナに伝えられた。どのように伝えられたのかは定かではなく、ホリンズが事前に調査してあったとか、コーン川で新聞の記事として読んだとも、ポーニーを捜索していた工作員からの報告であったとも言われている。いずれにせよ、報告を受けたザーヴォナは、合衆国側に察知される前に別の船舶への襲撃を行うことを決断し、セント・ニコラス号をチェサピーク湾へと向かわせた。最初の標的はブラジルからボルチモアへとコーヒーを輸送していたブリッグ船モンティセロ号(Monticello)である。鹵獲されたモンティセロ号は、連合国軍海軍将兵の手でコーヒーが不足していたバージニア州フレデリックスバーグへと向かった。次の標的は、ボストンからワシントンへと氷の輸送を行っていたメアリー・ピアース号(Mary Pierce)だった。メアリー・ピアースもまた、病院等で氷が不足していたフレデリックスバーグへと送られた。燃料としての石炭が不足すると、アレクサンドリアからニューヨークへの石炭輸送を行っていたスクーナー船マーガレット号(Margaret)を襲撃した。セント・ニコラス号鹵獲の露呈と合衆国海軍による追跡を恐れたザーヴォナは、これ以上の襲撃を行わず、マーガレット号を曳航してフレデリックスバーグへと向かわせた。 フレデリックスバーグにて、ザーヴォナと襲撃隊員らは英雄として凱旋した。首都リッチモンドでも歓迎を受け、 7月4日には大通りで盛大なパレードが催された。彼らのために催された舞踏会では、ラ・フォルテに扮して登場したザーヴォナが喝采を浴びた。後に笑い話として報じられたところによると、ザーヴォナは何人かの仲間にセント・ニコラス号での女装姿をもう1度見せると言うと、他の客には「すぐに戻る」とだけ伝えて会場を離れた。しばらくの後に見知らぬ女性が会場に現れ、事情を知らぬ何人かが彼女を歓迎し、さらに「彼女に良いところを見せられるまで大佐を締め出しておいてもいいんじゃないか」と相談し始めたところで、突然その女性がスカートをまくりあげてドレスの下の軍服とカットラスを晒し、ザーヴォナその人であることを明かしたのだという。セント・ニコラス号は連合国海軍が買い取り、軍艦ラパハノック(CSS Rappahannock)として運用された。代金は元の持ち主に支払われた。
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