ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始とは? わかりやすく解説

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ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始」の解説

ツァーリとなったヴワディスワフは、思わぬ反対勢力直面していた。それは自身の父ジグムント3世であった。ジュウキェフスキがジグムント3世との会見のため1610年11月スモレンスク戻った際、ジグムント3世考え変えており、自分ツァーリになると言い出したロシア多数派ジグムント3世に、特に彼がロシアカトリック化の考え隠さないことに反発していた。 ジュウキェフスキは困った立場置かれた。ポーランド人ロシアのツァーリ地位を得る目的のために、彼はボヤーレたちとヴワディスワフツァーリにすることで約束しており、ロシア全土不人気ジグムント3世即位にはボヤーレたちは反対するだろうと分かっていた。ジュウキェフスキはこのことをジグムント3世説明しなければならなかったが、当のジグムント3世は、ロシア西部征服過程で、自身ロシアでの人気ぶりを確信していた。ジュウキェフスキは最後にジグムント失望してポーランド帰ってしまった。 ジグムント3世はようやく妥協し息子ツァーリにすることを認め、彼が成人するまで摂政として自分ロシア支配する決めた。彼はボヤーレたちに、ヴワディスワフ王子服従し忠誠誓った者は同時に自分にも忠誠を誓わねばならない求めたボヤーレたちは一層反発しポーランドへの支持はますます薄れたヴワディスワフロシア実権を握る事はついにできず、ポーランドロシア戦争再発した緊張の高まりの中、ジグムント3世ヴワディスワフ安全のためモスクワ離れ、親ポーランド派ボヤーレたちが次々立場変えて行くことで、クレムリン残った小人数ポーランド軍部隊はたちまち孤立し、高まる敵意対象となった。 この時期ロシア正教会ロシア人対しポーランドへの抵抗呼びかける大役果たしたモスクワ総主教エルモゲンゲルモゲン)は1610年末、ロシア各地へ反ポーランド決起正教守護訴え回状送ったエルモゲン応えてリャザンプロコピー・リャプノフらが結成したポーランドロシア人たちによる軍隊第1次義勇軍第1次国民軍)はモスクワへ向かって進み、ヤン・ピョトル・サピエハ指揮下のモスクワ市外のポーランド軍衝突した。 同じ頃、ヴワディスワフロシアのツァーリ名乗りスモレンスク周囲都市要塞全てポーランド忠誠誓った後も、スモレンスク包囲戦はまだ続いていた。ジグムント3世スモレンスク対し自分忠誠を誓うだけでなくポーランド軍に門を開けることを望んだロシア軍拒んだ1610年12月包囲戦入ってから最大トンネル掘削作戦が行われた。しかしこの作戦ポーランド軍外郭多く破壊できたものの、内郭無傷のままだった。ある時はポーランド砲撃城壁一角崩しブラツワフヴォイヴォドポーランド兵に裂け目からの突撃命じた。しかし守るロシア側は崩れそうな部分予測しており、その部分に兵を増強していた。両軍殺し合いになりポーランド軍退却強いられた1611年モスクワでのポーランド軍駐屯対す蜂起は、ポーランド・リトアニア共和国介入対すロシア寛容終わりを示すものだったモスクワ市民1606年にも偽ドミトリー1世部下ポーランド兵と戦ったが、ポーランド軍支配が続く中で再度立ち上がる時が来た。モスクワ市民は弾薬庫占領したポーランド部隊第一波攻撃撃退した。この戦いで火の手上がりモスクワ一部炎上した同年7月連合置かれ状況はより悪化しモスクワ市内の蜂起ポーランド兵が立てこもるクレムリン攻囲戦へと移った伝えられるところでは、モスクワ市民の攻撃対しポーランド軍当時ロシアで最も権威のある人物であったモスクワ総主教エルモゲンに、民衆攻撃をやめるよう求め声明署名するよう求めたエルモゲン拒み投獄されたまま翌1612年飢え没した一方1611年6月2日、2回の厳しい冬を越えた20か月に及ぶ包囲の末、スモレンスクではついにポーランド軍による最後の攻撃始まった市民の間には飢えと病が蔓延しロシア兵食糧不足でついに限界達しポーランド・リトアニア軍は門を突破したポーランド軍ロシア軍脱走兵アンドレイ・デディシンに案内され城壁真下を通る下水溝存在教えられ城郭決定的な弱点をついにつかんだ6月13日下水溝爆弾入れられた。爆発で上にあった城壁大きく崩壊し同日スモレンスク陥落した残ったロシア兵生神女就寝大聖堂逃げ、敵の手かかって死ぬより自ら死ぬことを選び火薬を大爆発させ大聖堂運命を共にした。ロシアにとってスモレンスク陥落悲劇であったが、20か月包囲戦い抜いた指揮官ミハイル・シェインは後にロシア英雄となったシェイン捕虜となり、9年ポーランド投獄される

※この「ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
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