ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始
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「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「ジグムント3世への反発とロシアの反撃開始」の解説
ツァーリとなったヴワディスワフは、思わぬ反対勢力に直面していた。それは自身の父ジグムント3世であった。ジュウキェフスキがジグムント3世との会見のため1610年11月にスモレンスクに戻った際、ジグムント3世は考えを変えており、自分がツァーリになると言い出した。ロシアの多数派はジグムント3世に、特に彼がロシアのカトリック化の考えを隠さないことに反発していた。 ジュウキェフスキは困った立場に置かれた。ポーランド人がロシアのツァーリの地位を得る目的のために、彼はボヤーレたちとヴワディスワフをツァーリにすることで約束しており、ロシア全土で不人気のジグムント3世の即位にはボヤーレたちは反対するだろうと分かっていた。ジュウキェフスキはこのことをジグムント3世に説明しなければならなかったが、当のジグムント3世は、ロシア西部の征服の過程で、自身のロシアでの人気ぶりを確信していた。ジュウキェフスキは最後にはジグムントに失望してポーランドへ帰ってしまった。 ジグムント3世はようやく妥協し、息子をツァーリにすることを認め、彼が成人するまで摂政として自分がロシアを支配すると決めた。彼はボヤーレたちに、ヴワディスワフ王子に服従し忠誠を誓った者は同時に自分にも忠誠を誓わねばならないと求めた。ボヤーレたちは一層反発し、ポーランドへの支持はますます薄れた。ヴワディスワフはロシアの実権を握る事はついにできず、ポーランドとロシアの戦争が再発した。緊張の高まりの中、ジグムント3世とヴワディスワフは安全のためモスクワを離れ、親ポーランド派ボヤーレたちが次々立場を変えて行くことで、クレムリンに残った小人数のポーランド軍部隊はたちまち孤立し、高まる敵意の対象となった。 この時期、ロシア正教会はロシア人に対しポーランドへの抵抗を呼びかける大役を果たした。モスクワ総主教エルモゲン(ゲルモゲン)は1610年末、ロシア各地へ反ポーランドの決起と正教の守護を訴える回状を送った。エルモゲンに応えてリャザンのプロコピー・リャプノフらが結成した反ポーランドのロシア人たちによる軍隊(第1次義勇軍、第1次国民軍)はモスクワへ向かって進み、ヤン・ピョトル・サピエハ指揮下のモスクワ市外のポーランド軍と衝突した。 同じ頃、ヴワディスワフがロシアのツァーリを名乗りスモレンスク周囲の都市や要塞が全てポーランドに忠誠を誓った後も、スモレンスク包囲戦はまだ続いていた。ジグムント3世はスモレンスクに対し、自分に忠誠を誓うだけでなくポーランド軍に門を開けることを望んだがロシア軍は拒んだ。1610年12月、包囲戦に入ってから最大のトンネル掘削の作戦が行われた。しかしこの作戦でポーランド軍は外郭の多くを破壊できたものの、内郭は無傷のままだった。ある時はポーランドの砲撃が城壁の一角を崩し、ブラツワフのヴォイヴォドはポーランド兵に裂け目からの突撃を命じた。しかし守るロシア側は崩れそうな部分を予測しており、その部分に兵を増強していた。両軍は殺し合いになりポーランド軍は退却を強いられた。 1611年のモスクワでのポーランド軍駐屯に対する蜂起は、ポーランド・リトアニア共和国の介入に対するロシアの寛容の終わりを示すものだった。モスクワの市民は1606年にも偽ドミトリー1世の部下のポーランド兵と戦ったが、ポーランド軍の支配が続く中で再度立ち上がる時が来た。モスクワ市民は弾薬庫を占領したがポーランド部隊は第一波の攻撃を撃退した。この戦いで火の手が上がりモスクワの一部は炎上した。同年7月、連合の置かれた状況はより悪化し、モスクワ市内の蜂起はポーランド兵が立てこもるクレムリンの攻囲戦へと移った。伝えられるところでは、モスクワ市民の攻撃に対し、ポーランド軍は当時ロシアで最も権威のある人物であったモスクワ総主教のエルモゲンに、民衆に攻撃をやめるよう求める声明に署名するよう求めた。エルモゲンは拒み、投獄されたまま翌1612年に飢えで没した。 一方1611年6月2日、2回の厳しい冬を越えた20か月に及ぶ包囲の末、スモレンスクではついにポーランド軍による最後の攻撃が始まった。市民の間には飢えと病が蔓延し、ロシア兵は食糧不足でついに限界に達し、ポーランド・リトアニア軍は門を突破した。ポーランド軍はロシア軍の脱走兵アンドレイ・デディシンに案内されて城壁の真下を通る下水溝の存在を教えられ、城郭の決定的な弱点をついにつかんだ。6月13日、下水溝に爆弾が入れられた。爆発で上にあった城壁は大きく崩壊し、同日スモレンスクは陥落した。残ったロシア兵は生神女就寝大聖堂へ逃げ、敵の手にかかって死ぬより自ら死ぬことを選び、火薬を大爆発させ大聖堂と運命を共にした。ロシアにとってスモレンスク陥落は悲劇であったが、20か月の包囲を戦い抜いた指揮官ミハイル・シェインは後にロシアの英雄となった。シェインは捕虜となり、9年間ポーランドで投獄される。
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