シドニー到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:44 UTC 版)
1806年8月、シドニー到着後間もなくしてブライは、駐屯軍代表のジョージ・ジョンストン少佐、文官代表のリチャード・アトキンス(英語版)、そして、入植者代表のジョン・マッカーサーの署名が入った歓迎の言葉を受け取った。しかし、ほどなくしてブライはシドニーとホークスバリー川(英語版)流域の自由移民、そしてかつては囚人であった入植者たちから、挨拶の言葉と共に、総勢369にも上る署名を受け取った。その署名には、字を書けないためにx印であるものが多かった。彼らはマッカーサーは自分たちの代表者ではないと不満を漏らしていた、それというのも、マッカーサーは羊肉の値段を釣り上げるために、羊の出荷を留保していたからだった。 ブライが最初に手がけたことは、ホークスベリー川の洪水により深刻な被害を受けた植民地の農民の救援のために、貯蔵物資を活用し、家畜を提供したことだった。この洪水は植民地の物々交換経済を崩壊させていた。物資は不足している人々に応じて分配され、食糧は、貯蔵分から返済能力に応じて貸し付ける形で配給された。これによりブライは農民から感謝されたが、洪水から莫大な利益を得ていた軍の商人たちからは敵意を持たれた。 ブライは植民地政府の指示のもと、商品の支払いにラム酒を使うことを禁じて、植民地内の取引を正常化しようとした。1807年、ブライは植民地政府にこの方針を通達したが、抗議されるだろうと忠告された。本国の陸軍・植民地大臣であるロバート・ステュワートはブライに、1807年12月31日に彼の指示を受け入れたという旨の手紙を送った。ブライの指示は、酒による物々交換を禁止するものであり、ハーバート・エバットは、ラム酒の反乱についてこう結論付けている「ブライは無税輸入を禁止する権限を与えられた。彼の全権のもとで取引を維持するため、不法な輸入への罰則を強制するため、そして、酒の販売について、彼の思うままに規則を設けるためであった」 エバットは、植民地内の独占主義者の対立が、酒が通貨になっていること、それ例外にも、富裕な者の権力に対抗したり、貧しい移民たちの福祉を推進したりするやり方に根差していると主張している。ブライは、植民地内の有力者に大規模な土地を分配する習慣をやめさせた。彼の任期中に許可されたのは、ほんの1600ヘクタールを越える土地だけで、その半分は自分と娘のものだった。 いっぽうで1807年の10月、ジョージ・ジョンストンは、イギリス陸軍の総司令官に正式な苦情の手紙を書いた。それにはブライが軍団を侮辱し、干渉すると書かれていた。ブライが、植民地内の影響力を持つ人々の一部を敵に回しているのは明らかだった。また、シドニーで、政府の所有地を金を払って借りている者の家を取り壊すように命令し、裕福でないものの一部とも敵対していた。 ブライはまた、アイルランド系の犯罪者が暴動に関与した件で、告発人を含めた裁判委員にこの件を裁かせ、8人中6人が無罪放免されたものの、彼らを拘留したため一部の人々を怒らせた。また、植民地の軍医助手のダーシー・ウエントワース(英語版)を有無を言わさずに解雇し、3人の商人を1か月投獄する判決を下し、ある手紙が攻撃的であるとして罰金を課した。ブライは治安判事のトマス・ジェイミソン(英語版)も解雇した。 ジェイミソンは、ウエントワースがブライから軍法会議にかけられた際に、ウエントワースを支持し、またマッカーサーも擁護していた。ブライは、植民地政府に、ジェイミソンは不正直な男で、政府と反目し合っている、同様に不当な売買にも関与していると不満を漏らした。ジェイミソンは腕のいい軍医でもあったため、ブライは、代わりがいないと言うだけの理由で、軍医の仕事を続けさせた。後にジェイミソンは、1808年1月マッカーサーに加担してブライを退任させ、彼自身は、反乱軍による政府により治安判事と海軍士官に就任し、ブライの支持者を取り調べ、私文書に目を通し、反乱の最中に総督が植民地から離れることを禁じた1人だった。
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