シドニー五輪出場
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2000年9月開催のシドニー五輪女子マラソン代表選考レースだった、同年1月の大阪国際女子マラソンでは、序盤から積極的に集団を引っ張り、終盤の37Km過ぎに弘山自らスパートを仕掛け、40Km地点ではリディア・シモンらに11秒の差をつけて、勝負あったかに見えた。しかしシモンはここから驚異的な追い上げを見せて、長居陸上競技場に入る直前のゴール迄残り500m付近で、弘山はシモンに追いつかれ逆転されてしまう。結果弘山は2時間22分56秒でゴール、世界歴代9位(当時)・日本歴代3位(当時)の好記録でゴールしながらも、優勝したシモンにわずか2秒差で2位と敗れた。 注目されたシドニー五輪女子マラソンの選考は、既に市橋有里が昨年の世界陸上セビリア大会での銀メダル獲得で内定済み、代表に選出された東京優勝の山口衛里と名古屋優勝の高橋尚子より、弘山は順位もタイムも劣っていた為、無念の落選となった(補欠は弘山ではなく小幡佳代子)。 五輪女子マラソン代表落選時の弘山は、夫の勉コーチと共に夫妻二人揃って、気丈に記者会見に応じていたが、内心落選のショックはかなり大きかった、という。それでも弘山はめげずに、一旦は五輪内定を辞退していた長距離トラック種目での五輪代表を目指す事となった。そして選考レースの水戸国際陸上大会で優勝し、晴れてシドニー五輪女子10000m代表に選出される。夫の勉コーチは思わず感涙、その光景にもらい泣きする陸上ファンも多かった。そのシドニー五輪の10000mレース本番は、予選では余裕で通過したものの、決勝では超高速のペースについていけずレース後半周回遅れとなり、最下位の20位に終わる。しかし弘山は「色々な事が有った中、五輪の舞台に出場する事が出来て良かった」と、サバサバした表情で語っていた。
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