サハリン島南部(南樺太)からの引き揚げ
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「引き揚げ」の記事における「サハリン島南部(南樺太)からの引き揚げ」の解説
1945年8月当時、北緯50度以南のサハリン島南部に住んでいた日本人は約40万人だった。1946年2月2日のソ連最高会議幹部会令により、1945年9月20日に遡り、南樺太と千島の土地・施設機関の国有化が決定され、翌1947年2月25日にソビエト連邦最高会議は、南樺太のソ連領編入を正式決定した。ソ連の占領下で生活することになった日本人は、技術者を中心として多くがそのまま職場に留まった。 ただ密航船による脱出が後を絶たず、宗谷海峡封鎖から公式引揚が開始されるまでに住民の4分の1近くにあたる約2万4000人が北海道へ逃れて行った。ソ連は、技術者か非技術者を問わず在留日本人の送還には全く興味を示さなかった反面、在留日本人に対して、ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え、実生活面では大きな違いはほとんどなかった。樺太は、戦前より米の生産ができず、内地からの移入に頼っていたが、ソ連領編入により日本と切り離され、米の移入が途絶えてしまった。 その解決策として、ソ連は旧満州から大豆、北朝鮮から米を移入し、日本人への配給に充てる一方、北朝鮮から、漁業、林業、土木従事者等の朝鮮人労働者も送られるようになった。日本の敗戦からほどなくして、ソ連が占領した、旧満州・北朝鮮・サハリンでは一つの経済圏が早くも生まれていた。米国が、占領地や植民地に在留する日本人を本国へ送り返すことにこだわったが、ソ連は逆に日本人の送還に無関心であった。 しかし、サハリンや千島に取り残された日本人は引き揚げを望み、日本政府もGHQに対して引揚促進を働きかけた。結局旧満州地区からの引き揚げが開始された1946年春以降、サハリンと北朝鮮、大連のソ連占領地区からの日本人引き揚げが米ソ間で協議されるようになる。11月27日には『引揚に関する米ソ暫定協定』、12月19日には『在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定』が締結され、サハリンと千島地区からの引き揚げが開始し、1949年7月の第5次引き揚げまでに29万2590人が引き揚げた。 しかし、朝鮮人の家族のいた人やソ連に足止めされた熟練労働者ら少なくとも約1500人がサハリンに留まった(京都大学地域研究総合情報センター中山大将助教による)。 1956年の日ソ国交回復により、日本人約800人とその朝鮮人家族約1500人が集団帰国したのをはじめ、1976年までに日本人約140人、その家族300人が個別に帰国した。それでもなおサハリンに残留する日本人にとり、東西冷戦の影響のため、祖国は遠いものであった。1965年から「サハリン墓参」が始まり、既に日本に帰国したかつての「島民」がサハリンを訪ねて来るようになった。 サハリン残留者にとって離散した肉親の消息を知りうる貴重な機会になった。しかし、両者が墓地等で会うことは黙認されたが、ソ連の警察に監視下にあり、墓参団に託された肉親からの小包や手紙は徹底して調べられた。1986年に改革政策ペレストロイカが開始され1991年のソビエト連邦の崩壊までの一連のソ連の変化により、日ソの厚い壁が崩された。1988年にサハリンの外国人立ち入り禁止区域が解除された。1989年に「樺太同胞一時帰国促進の会」が発足し、同会が国に働きかけた結果、1990年には300人を目標に残留日本人の一時帰国事業も始まり、離散家族の再会が実現した。 この事業により1992年までに371人が帰国した。同会は、「サハリン残留者全員の希望がかなうまで続けて欲しい」との要望をうけ、「日本サハリン同胞交流協会」に衣替えした。延べ3126人が一時帰国し、303人が永住帰国した。一時帰国事業は2015年現在も続いている。
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