サイレント映画での全盛期とは? わかりやすく解説

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サイレント映画での全盛期(1925年 - 1929年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:30 UTC 版)

グレタ・ガルボ」の記事における「サイレント映画での全盛期(1925年 - 1929年)」の解説

ニューヨーク到着したスティッレルと当時20歳ガルボどちらも英語が話せず、さらに三ヶ月わたってMGMから何の連絡もなかった。業を煮やした二人独力でロサンゼルスへ向かったが、その後週間過ぎてMGMからの連絡はほとんどなかった。実はこの時期制作会社が、ガルボ歯列矯正減量の手配を進めていたのだったガルボアメリカで第一作目にスティッレルの作品望んでいたが、ガルボ出演の話が来たのはビセンテ・ブラスコ・イバニェス小説原作とした、モンタ・ベル監督の『イバニエスの激流』(1926年)のレオノーラ役だった。主役のリカルド・コルテス (en:Ricardo Cortez) の相手役である妖婦レオノーラ役には、ガルボよりも10歳年上の女アイリーン・プリングル (en:Aileen Pringle) が決まりかけていたが、ガルボプリングル押しのける形でレオノーラ役に抜擢されのである。『イバニエスの激流』はヒットし作品そのもの対す業界誌からの評判高くなかったが、ガルボ演技について概ね好評だった。 『イバニエスの激流』の成功によって、MGM大物映画プロデューサーで、製作部門総責任者アーヴィング・タルバーグが、同じくビセンテ・ブラスコ・イバニェス小説原作とした『明眸罪あり』(1926年)の主役で『イバニエスの激流』のレオノーラ同じよう妖婦エレナ役にガルボ起用したハリウッドでわずか一作出演しただけのガルボが、相手役アントニオ・モレノ (en:Antonio Moreno) よりも上にクレジットされた。ガルボの師といえるスティッレルは、主役ガルボ自分味方をするように説得し、なんとか『明眸罪あり』の監督の座を得たしかしながら、『イバニエスの激流』で演じた妖婦の役が気に入っておらず、同じような役を再び演じたくなかったガルボと、監督となったスティッレルの両名にとって、この『明眸罪あり』は満足できる作品とはならなかった。英語がほとんど話せなかったスティッレルは、ハリウッドでの製作手法合わせることができず、主演モレノとの関係がどんどん悪化していった。この有様激怒したタルバーグがスティッレルを更迭し、代役としてフレッド・ニブロ監督指名する結果となった。ニブロのもとで再撮影することとなった明眸罪あり』の製作費用は嵩んでいき、1926年から1927年公開され映画作品としてはトップクラス興行成績をあげたにも関わらず、この時期ガルボ出演した映画の中で唯一明眸罪あり』だけが赤字作品となっている。ただし『明眸罪あり』でのガルボ演技高く評価されMGM新たなスター女優手にすることとなったガルボ人気急速に高くなり、その後ガルボ主演した8本のサイレント映画はすべてヒットしたガルボ当時高の人気を誇っていた男優一人であるジョン・ギルバート3本映画共演している。最初に共演した作品は『肉体と悪魔』(1926年)で、サイレント映画研究者ケヴィン・ブラウンロウ (en:Kevin Brownlow) は「彼女(ガルボ)はそれまでハリウッド映画見たともないような官能性溢れた演技をみせた」と評している。『肉体の悪魔』での演技におけるガルボギルバート親密さそのまま私生活でも続き撮影終了するころには二人同棲生活を始めていた。 『肉体の悪魔』は、ガルボ私生活のみならず女優としてのキャリアにも大きな転機となった映画史家のマーク・ヴィエイラは「大衆は彼女(ガルボ)の美しさ魅惑されギルバートとのラブシーン興奮させられた。そして彼女は大評判となっていった」としている。ガルボギルバート共演した三作目の映画恋多き女』(1928年)もこのシーズン興行成績大成功収めガルボMGMトップスターとしての座を不動のものとした。1929年映画批評家ピエール・ド・ロハンは『ニューヨーク・テレグラフ』で「彼女(ガルボ)には男女ともに魅了する美貌魅惑がある。ガルボ匹敵する俳優存在しない」と評している。 その演技存在感によって、ガルボ短期間のうちにハリウッドでも有数偉大な女優一人という評価得た映画史家評論家のデイヴィッド・デンビーは、ガルボサイレント映画界に繊細な感情表現もたらしたとし、観衆与えた訴求力計り知れない評価している。ガルボは「相手見極めるように頭を低くして唇を振るわせる」「目や唇に軽く緊張走らせて表情暗くして見せる。また眉をひそめたり口角下げることによって感情表現している。世界中が彼女の一挙手一投足酔いしれたのだ」 この時期ガルボ自身撮影現場注文をつけることが多くなっていた。撮影現場での製作会社幹部を含む見学者近づくことを禁じエキストラスタッフに対しても、自身周りに黒い衝立巡らせ視界入らないようにすることを求めたこのような異例な要求をする理由尋ねられガルボは「他の人と一緒ではできない表情作るためです」と答えている。 ガルボ台詞を必要としないサイレント映画スターだったが、製作会社ガルボスウェーデン訛り人気妨げとなることを危惧し当時製作が始められていたトーキー映画へのガルボ出演可能な限り遅らせようとした。MGMサイレント映画からトーキー映画への移行消極的だったが、ガルボ出演した最後サイレント映画接吻』(1929年)が、MGM最後サイレント映画にもなった。ガルボ1930年代においてもハリウッドで最高の興行収入をあげる女優一人であり、古きサイレント映画象徴でもあり続けた

※この「サイレント映画での全盛期(1925年 - 1929年)」の解説は、「グレタ・ガルボ」の解説の一部です。
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