グレート・トレック
グレートトレック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
リヴィングストンの逸話に描かれているボーア人はケープ植民地内で農耕に従事していた姿とは大きく異なる。このような変化は奴隷に関するイギリスの対応が変化したことに遠因がある。1828年にはケープ植民地における非白人の強制労働が禁止された。農作業の労働力として黒人奴隷を使役していたボーア人は打撃を受ける。1834年にはイギリス帝国内部に限定されてはいたが、奴隷制度自体が廃止されてしまう。イギリスの対応は1807年の奴隷貿易廃止から一貫しており、もはや覆すことは難しかった。 ボーア人を怒らせた2つ目の政策はケープ植民地における土地の私有化である。従来のボーア人農業は植民地当局から借り受けた農地を過剰な農業、放牧によって短期間に農業が維持できなくなるまで使いつぶし、次の農地を借りて移動するというものであった。土地の私有化が進むとこのような短期間に利益のあがる「農法」は維持できない。 ボーア人はもはやイギリス統治下のケープ植民地では生活ができないと考え、1835年、突如大集団を形成し、移動を始める。彼らの心の支えはオランダ改革派教会であった。自分たちを神に選ばれた選民であると信じ、蒙昧無知、劣悪なアフリカ人を征服することが疑いなく正しいと思い込んでいた。彼らが移動した先の土地は自動的に神に与えられた土地となった。彼らの土地に住むアフリカ人は、ボーア人が慈悲で居住を許しているのであり、その代わり、必要に応じて労働力(強制労働)を提供しなければならないという論理を貫いた。ツワナ人をはじめとする現地住民はほとんどの場合、財産を捨てて逃げるか、火器で武装した農民に従わざるを得なかった。現地の諸民族はシャカ王の攻撃からまだ5年しか経過しておらず、統制が取れていないため、集団で対抗することもできなかった。 このころには一部のボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになっていた。これまで障壁となっていたドラケンスバーグ山脈を越え、ボツワナに隣接するトランスヴァール地方に移住していく。アフリカーナーは4年を要したこの移動のことをグレート・トレックと呼んでいた。移動手段は牛車であり、数百家族に及ぶ行列を形成した。シャカ王は既に没していたが、ズールー人の攻撃をはねのけた移動は犠牲も大きかった。 アフリカーナーはズールー族を駆逐し移動を停止、1839年にナタール共和国を建設する。 しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立、イギリスも両国を承認した。アフリカーナーとイギリス人の間で鉱山の領有権の争いが起きると、ツワナ人に対する攻撃は止み、1850年から1860年にかけてボツワナにも平和が訪れた。1869年のスエズ運河開通を受け、ケープ植民地の位置付けも変化していく。交易の中継点から鉱業の中心地となっていった。 ツワナ人は一時の平和を信じていなかった。いずれアフリカーナーによる攻撃が再開することを予期し、定住地域を調整しつつ、ヨーロッパ人からライフル銃を購入し武装した。
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グレート・トレック
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「近代における世界の一体化」の記事における「グレート・トレック」の解説
南アフリカのケープ植民地は、17世紀なかばにオランダが植民地をきずいて以来、オランダ人をはじめとする西ヨーロッパ系住民が農業、牧畜を営む定住地を形成していた。かれらは、この地のサン人とよばれる狩猟民やコイコイとよばれる牧畜民族(合わせてコイサンと称する)を支配する一方、マダガスカルやインドネシア方面からも奴隷を移入させ、多くの混血の層をうみだすとともに、アフリカーンスという独自のことばを発達させた。 1814年にイギリス領となると、数十万に達していたオランダ農民の子孫たちは不満をもちはじめ、ケープ政府のイギリス化への反発、みずからの選民思想、奴隷解放にともなう打撃などから、ケープ植民地から新天地を求め、偵察隊の報告をもとに困難を覚悟で植民地の境界をこえて北上した。この移住は1835年から1837年ころまで続き、グレート・トレックとよばれる。 このような拡大は、これまでヨーロッパ人と接触することがなかったコイサンや、北方のバントゥー語群系のアフリカ人社会を、根本から破壊することとなり、各地で反抗や戦争がたえまなくおこった。しかし、かれらはしだいに土地をうばわれ、強制労働にかりだされるなどして、のちのアパルトヘイトをうむ南アフリカ社会の基礎がつくられていった。
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グレート・トレック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)
詳細は「グレート・トレック」を参照 1835年から1840年代初頭にかけて、ボーア人の大移住ことグレート・トレックが起こった。その間、約1.2-1.4万人のボーア人(女性と子供を含む)がイギリス支配に耐えかねてケープ植民地からオレンジ川の向こうにある大平原に移住し、さらにトランスヴァール北部にあるナタール (彼らが1839年にナタール共和国を建国)や広大なズートスパンスベルグへと向かった。東ケープを占領したトレックボーア達は半遊牧民だった。東ケープ境界にいた結構な人数が、後にフォールトレッカー達の直接の祖先となるグレンスボーア(Grensboere,境界農民)になった。 ボーア人は、ケープ植民地を離れる前にイギリス植民地政府と幾つか自分達の出発の理由について通信のやりとりをしていた。当時のボーア指導者の1人ピート・レティーフは、グラハムズタウンで政府に宛てた1837年1月22日の書簡で、こんな内部騒動を抱えている国だとボーア人は我が子たちに平和や幸福の展望を見出だせないと主張した。さらにレティーフは、自分達がイギリス政権の法律から生じたと思われる深刻な財政損失について不満を述べた。自分達が奴隷にした人々の解放に対する金銭補償はあったものの、ボーア人はそれが不十分だと分かっていた。また彼らはイギリスの教会制度がオランダ改革派教会と相容れないとも感じていた。この時までに、ボーア人は既にグレート・トレックのために別の法令を作っており、自分達が踏み入れることになる危険な領土を認識していた。レティーフはその手紙を「我々は、イギリス政府が我々に要求するものがこれ以上ないという完全な保証の下でこの植民地を辞めており、将来的な干渉がなくとも自らを統治できる予定である」と締めくくっている。
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