カトリックの評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:16 UTC 版)
遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。 晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。 このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。 遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。 サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父は、1978年12月24日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している。 遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、フェデリコ・バルバロ神父は反論を書いている。 遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キリストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。 キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。 キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。 。 しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った。この認識、そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである[独自研究?]。
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