カトリックの金融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/27 06:42 UTC 版)
「パウル・ファン・ゼーラント」の記事における「カトリックの金融」の解説
ゼーラント家の祖先は19世紀のはじめにオランダからベルギーへ移り住んだ。 1893年11月11日、パウル・ファン・ゼーラントはエノー州ソワニー(Soignies)で8人兄弟の7番目の子として生まれた。末っ子のマルセル(Marcel van Zeeland)は1897年6月に生まれた。他の兄弟は早世した。 1912年秋にルーヴァン大学(Catholic University of Leuven)へ入学し、哲学・文学を学ぶかたわら新トマス主義(ネオトミスム)を学んだ。ネオトミスムをパウルに教えたのは、メヘレンのデジレ・ジョゼフ・メルシエ枢機卿(Désiré-Joseph Mercier)であった。パウルは第一次世界大戦に従軍し捕虜となった。1919年1月初めに捕虜生活を脱し、8月に除隊した。 1919年には連邦準備制度が金本位制に復帰した。パウルはベルギー総合会社のエミール・フランキ(Émile Francqui)を訪ね、プリンストン大学のエドウィン・ケメラー(Edwin W. Kemmerer)のもとで学びたいからと、ベルギー救援委員会(Commission for Relief in Belgium)の奨学金を要請した。希望はかなえられ、1920年9月にパウルは24名のベルギー人留学生の一人としてアメリカに渡った。留学生の内訳は、医学生10名、技術系8名、その他パウルをいれて6名であった。 パウルは通貨改革をテーマに修士論文を書き、ニューヨーク連邦準備銀行で研修を積んだ。ケメラーの指導により多くの専門家と会った。1920年から翌年にわたり、プリンストン大学での研究で経済学博士号を取得した。
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