オペラ・オーストラリア:1996年以降
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「オペラ・オーストラリア」の記事における「オペラ・オーストラリア:1996年以降」の解説
オペラ・オーストラリアは、オーストラリアン・オペラとビクトリア州オペラ・カンパニーとの統合によって1996年に誕生した。これは、メルボルンを本拠地としていたビクトリア州オペラ・カンパニーの経済的破綻の結果、もたらされたものである。エイドリアン・コレットが新しいカンパニーの初代総監督に指名された。そして、3年にわたる計画を提示し、1年に2度、シドニーとメルボルンでの公演を行い、オペラ・オーストラリアとビクトリア州オペラ・カンパニーのスタッフを一つにまとめて、引き継いだ負債を含めた実行可能な財政的構造を準備して、カンパニーの再建を図ったのである。[要出典] 最初の数年には、オペラ・オーストラリアの芸術監督を務めたモファット・オクスンボウルドが引退し、シモーネ・ヤングを音楽監督に指名したりするといったことがあった。引退する芸術監督に対して敬意を払い、青年芸術プログラムが改めて「モファット・オクスンボウルド青年芸術家育成プログラム」と名付けられた。その直後、2001年には、シモーネ・ヤングが自分の後任を務める人間としてオーストラリア人の監督スチュアート・モーンダーを芸術監督に指名している。ヤングはカンパニーの中心となる上演曲目を広げることに務め、ドイツのオペラを増やし、公演の制作を多様なものにして、国内外から様々な音楽家を雇用した。しかし2002年の秋から冬にかけて、オペラ・オーストラリアの評議会は、悪化していく赤字について検討した結果、ヤングのカンパニーに関する構想は、もはや「容認できない」として、彼女との契約は2003年末で打ち切ることを発表した。 2003年の末に、リチャード・ヒコックスがオペラ・オーストラリアの次の音楽監督に指名された。彼は2005年1月から正式に音楽監督に就任した。彼の在任期間中、ヒコックスは、20世紀の作品、例えば『三つのオレンジへの恋』、『マクロプロス事件』、『ルサルカ』、『アラベラ』といった作品をレパートリーに加え、こうした曲目のライヴ録音をシャンドス・レコーズに残している。カンパニーの50周年記念は2006年に行われ、ガラ・コンサートが開催され、ジョーン・サザーランドとリチャード・ボニングを始め、主要なアーティストたち、コーラス隊、制作スタッフ、そしてオーストラリアン・オペラとバレエ・オーケストラに対して、その芸術性と才能に対して、そしてカンパニー全体に対して賛辞が送られている2008年半ばに、ヒコックスとオペラ・オーストラリアは、ヒコックスがその任に就いて以降、芸術的水準に衰退が見られるのではないかとして非難された。。シドニーの冬期公演を終えて、2008年11月にイギリスに戻るとすぐ、ヒコックスはスウォンジーでのリハーサルを指揮した後、突然の心臓麻痺で亡くなった。2009年6月30日に、リンドン・テラチーニが新しく芸術監督に就任することが発表された。 2011年、リンドン・テラチーニは例年のペギー・グランヴィル・アドレスでのスピーチで、議論を呼ぶ発言をした。その中で彼は、オペラ・オーストラリアは生き残るためには変わらなければならない、と語っている。「オペラ・カンパニーとオーケストラという存在が全世界的に憂慮すべき進度でその生命の終わりを迎えている。…我々はその事実を浅はかにも無視するのか…あるいは我々自身が変化することができるはずである、…大胆な演目の選択は、それ故批評家達が非難する理由にもなるだろうが、しかし、本物の聴衆との真の結びつきをもたらすことだろう」 芸術監督は、より幅広い聴衆に訴えるであろう演目を追究した。2012年には神道系新宗教ワールドメイト教祖の半田晴久(深見東州)とニュー・サウス・ウェールズ・デスティネーションの財政援助によって、オペラ・オーストラリアは第1回の「シドニー港のほとりのハンダ・オペラ」、すなわち、3週間にわたって行われる、すべてに事前に制作の手が入った「オペラ・イベント」を上演したのである。ラ・トラヴィアータの制作はフランチェスカ・ザンベロが監督し、4万人の聴衆を動員した。2013年には、オペラ・オーストラリアはゲイル・エドワーズの監督により『カルメン』をシドニー港で上演した。こちらも1年前とほぼ同じ規模の聴衆が集まっている。 2012年に、オペラ・オーストラリアにとっては初めてのことだったが、ブロードウェイのミュージカルの上演を始めた。数年にわたってカンパニーの定期演目となっていた、ギルバートとサリヴァンによる演目と入れ替えたのである。同じ2012年にはリンカーン・センター・シアター制作の『南太平洋』がシドニー・オペラハウスとメルボルンのプリンセス・シアターで非常に多くの聴衆の前で上演され、オーストラリア国内ツアーの幕が切って落とされた。このツアーは翌年まで続いた。 幅広い層からの慈善的精神によって後押しされ、カンパニーは初めて、完全版の『ニーベルングの指輪』の公演を決定し、2013年の末に、4週間以上にわたってメルボルンで上演された。この公演のチケットがたった1日で完売した後、オーストラリア放送協会のクラシック局とオペラ・オーストラリアは、ラジオ放送で『ニーベルングの指輪』の生中継を全国放送すると発表した。 2013年4月には、オペラ・オーストラリアは全体としての歳入は44%の増収となり、それは大成功した公演が55%以上の収入増となったからだと発表した。カンパニーは、2年続いた赤字の後、今度は2年連続で営業利益の増収を達成することができたのである。 2013年1月、オペラ・オーストラリアの評議会は、リンドン・テラチーニとの芸術監督の契約をさらに5年延長すると発表した。その年の後半、テラチーニは、「1年契約の歌手には、賃金の支払いがない休職期間を6週間から12週間の間で、2014年に入ってから取ってもらう」ことを発表した。この例に当てはまる歌手には、ジャクリーン・ダーク、ドミニカ・マシューズ、ワーウィック・ファイフェらがいる。
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