クイーン・エラリー(Ellery Queen)
1905年(明38)にアメリカのブルックリンに生まれた二人の従兄弟マンフレッドリー(本名マンフォードレボフスキー)とフレデリックダネイ(本名ダニエルネイサン)の合同筆名。なお、ダネイが1953年(昭28)に単独で自伝的小説「ゴールデンサマー」を発表した際には、ダニエルネイサン名義を用いている。
1929年に本名を隠して刊行された「ローマ帽子の秘密」は最初、雑誌「マクルーア」の懸賞探偵小説募集に投稿し、入選が内定していたのだが、雑誌社の破産に伴う、経営者交代により、入選はイザベルBマイヤーズの「殺人者はまだ来ない」(1930(昭5))に変更された。
1931年(昭4)、「オランダ靴の謎」を刊行。
1932年(昭7)、「和蘭陀靴の秘密」として、伴大矩により「探偵小説」で訳される。
1932年(昭7)、バーナビーロス名義で「Xの悲劇」刊行。なお、ロスがクイーンであったことが明かされたのは、1941年(昭16)になってからのことである。
1932年(昭7)、「エジプト十字架の謎」を刊行。
創作活動期は三期にわけられ、1929年(昭4)-1935年(昭10)までの躍進期がパズル的な作風の目立つ「国名シリーズ」と「バーナビーロス名義の悲劇四部作」。この時期の「Yの悲劇」(1933(昭8))は、ヴァンダインの「グリーン家殺人事件」を意識して執筆されたものだが、探偵小説の最高傑作とたたえられている。日本へは井上良夫によって1937年(昭12)に紹介されたが、バーナビーロス名義だったため、戦後、クイーンと同一人物だというニュースが伝えられると大騒ぎになった。
1936年(昭11)-1939(昭14)年の模索期。1940年(昭15)以降-1958年(昭33)の円熟期で、「架空の町ライツヴィルシリーズ」を書いた。1960年(昭35)以降は最終期として位置付けられ、この時期には代作も多い。
1940年(昭15)、中篇「神の灯火」を発表。この作品を収めた作品集「エラリークイーンの新冒険」のペイパーバックは1945年(昭20)に百万部以上を売上げ、記念賞を得る。探偵小説で百万部を売り上げたのは、それまではハメットだけだった。
1942年(昭17)、ライツヴィルシリーズ一作目の「災厄の町」を刊行。
1943年(昭18)、「靴に棲む老婆」を発表。
1945年(昭20)、「フォックス家の殺人」を発表。
1933年(昭8)に雑誌「ミステリリーグ」を、1941年(昭16)に雑誌「エラリークイーンズミステリマガジン」を創刊。
1941年(昭16)の「101年の傑作集」や1951年(昭26)の「クイーンの定員」など、ダネイの犯罪小説に関する世界的な収集を元に、短編探偵小説をテーマにした書誌的な業績も多い。
1948年(昭23)、アメリカ探偵作家クラブ短編賞を受賞。
1955年(昭30)、過去の業績により、第一回江戸川乱歩賞の候補に挙げられる。
1961年(昭8)、アメリカ探偵作家クラブ巨匠賞を受賞。
1963年(昭38)に刊行された「盤面の敵」はスタージョンの代作であり、1964年(昭和39)の「第八の日」、1965年(昭40)の「三角形の第四辺」、1968年(昭43)の「真鍮の家」は1962年(昭37)に「ラホーア兵営事件」でアメリカ探偵作家クラブ短編賞を受賞したアヴラムデヴィッドスンの代作である。
1971年(昭46)、マンフレッドリー、心臓発作のため死去。
1979年(昭54)、「第八の日」がフランス推理小説大賞外国部門賞を受賞。
1982年(昭57)、フレデリックダネイ死去。
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