ウルトラモンタニズムの復活
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ウルトラモンタニズムの復活」の解説
「ウルトラモンタニズム」も参照 革命期のローマ教皇は、ピウス6世もピウス7世も同様にフランス革命軍やナポレオン軍から屈辱的な扱いを受けた。フランス革命軍はドイツ、スペイン、イタリアに攻め入って各地の教会に大打撃を与えて各社会を混乱に陥れたが、ローマ教皇庁にとっては予期せぬ好結果をもたらした面もなくはなかった。革命以前にあってガリカニスムの本拠であったフランスでは、誰しも革命の荒波を押しとどめることができなかったため、ガリカニスムそのものの脅威は教皇庁の前から消え去った。ナポレオン軍がドイツに侵入してケルンをはじめラインラントの領邦司教の領域を俗権下に置いて世俗化を敢行した結果、ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイムによって唱えられて18世紀のドイツのカトリック界で一世を風靡したフェブロニウス主義(英語版)(教会を国家権威に従属させようとするガリカニスムに似た思想)の基盤はかえって弱まり、ドイツの司教たちの教皇庁に対する依存度を強めた。フランスでは革命にともなう社会変動により、聖職者階級は絶対王政下で与えられていた社会的地位、特権、経済的優遇措置のすべてを失ったが、聖職者階級を政治に結びつけてガリカニスム的体制を支えてきたすべての要因は消失し、世俗主義的政権こそカトリック信仰の前に立ちはだかる唯一最大の敵であることが、誰の目にも認識されるようになったのである。 かくして、カトリック教徒のなかではウルトラモンタニズムと呼ばれるローマへの回帰が次第に強まった。ウルトラモンタニズムは、世俗主義や俗人主義、あるいは唯物論、さらには社会主義や共産主義など増大しつつある信仰への脅威に対し、カトリック信徒が一致団結してあたらなければならないという気運から生まれた草の根的な広がりをもつ運動となった。ローマ教皇だけが上記のような脅威に対抗しうる指導力をもっているとみなされた結果、カトリック諸教会の典礼様式、規律、習慣をローマ教会のそれに統一すること、ローマ教皇の首位権のもとで高度に中央集権化された教会体制を実現していくこと、教会は社会全体の救済に責任と権限をもって世俗国家の干渉を受けないようにすることが必要であると考えられた。この運動は当初、低位の聖職者や一般信徒から湧き上がってきたものであるが、やがて19世紀中葉以降はヨーロッパ社会を動かす大きな力のひとつとなっていった。 ピウス7世は幽閉から解き放たれると、1789年以降壊滅状態にあった教会再興への強い意欲を示し、教皇庁の再建と教会の権威を復活させるため、精力的に行動した。教皇国家を回復し、ナポレオン失脚後のウィーン会議では、各国の代表にヨーロッパ安定のために保守的・王政的秩序の復活が肝要であることを訴え、1814年には解散させられていたイエズス会の復興を命じた。国内の宗教問題に対して管轄権を主張していた各国の政府とは政教協約を締結して教会の権益を最低限守り、外交交渉を進めて時代の趨勢(すうせい)と折り合いをつけながら教会の影響力を温存した。ドイツでは、プロイセン主体のゆるやかな連邦となりつつある情勢のなか、単一の政教協約を結ぶのはかえってローマへの依存を低減させ、全カトリック教会が統一ドイツの支配下に置かれる布石になってしまうものと判断し、1817年にはバイエルン、1824年にはハノーファーなど、地域ごとの政府と政教協約を結ぶ方針をとった。一方、領内のカトリック教徒を服従させようとするプロテスタントのプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とも1821年に政教協約を結んだ。
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