イーシャー卿の陸軍改革と参謀
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「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「イーシャー卿の陸軍改革と参謀」の解説
レオ・アメリーの提案に基づき、ヘンリーの同僚ジェラルド・エリソンは、陸軍省(再編成)委員会(イーシャー報告(英語版)を参照)の秘書官に任命された。その委員会は、子爵レジナルド・ブレット卿(イーシャー卿)(英語版)、海軍大将ジョン・フィッシャー提督及び植民地行政官、男爵ジョージ・クラーク卿(英語版)の3人から成っていた。ヘンリーは、イーシャー卿の目的には賛同していたが、それはヘンリーが陸軍省で始めた変革ほどのスピードはなかった。ヘンリーはイーシャー卿に働きかけて、幹部学校、王立陸軍士官学校(RMA)、王立陸軍士官大学(RMC)及び幹部の昇進試験を管理する部門の任務に就いた。ヘンリーは、幹部の訓練と昇進試験に関する助言を行うため、しばしば英国とアイルランド内を出張した。 1905年1月、ヘンリーは、キャンバリーで史上初の参謀会議と幕僚演習に出席した。彼は、特に1904年10月のドッガー・バンク事件(ロシアのバルチック艦隊が誤認により英国漁船を攻撃した事件)以降、参謀本部が設置されるよう工作を続け、レピントン中佐も1905年5月からそのために公然と運動し、それはブロドリック卿の後継者アーノルド・フォースター陸軍大臣(英語版)が行動を起こす手助けとなった。フォースター大臣はヘンリーに意見を求め、ヘンリーは、戦略の問題に関して陸軍大臣の唯一の助言者になり得る強力な「参謀本部総長」を提案したが、その役職は皮肉にも第一次世界大戦の間、ヘンリーのライバルであるロバートソンによって支援されることになった。レピントン中佐、イーシャー卿とジョージ・クラーク卿からの圧力にもかかわらず、参謀本部の進歩は遅々としたものだった。8月、フォースター大臣は、ヘンリーが3か月前に提出したものに似た覚書を提出し、リテルトン将軍(当時、参謀本部総長)は、ヘンリーの役割を知らずに、それに支持を表明した。11月、ヘンリーはフォースター大臣のメモを報道機関に公表し、それはヘンリーがそうするよう命令されたものだと主張したが、フォースター大臣は当初「驚き」を表明したものの、その後、公表は「良いものに他ならない」ということに同意した。 ヘンリー家は、1904年と1905年にロバーツ卿(当時、参謀総長)とクリスマスディナーを共にした。ロバーツ卿は息子のフレディがボーア戦争で戦死していたが、彼の娘たちが血統を維持するために結婚してほしいという願いや希望についてヘンリーと議論することを好んだ。ヘンリーは、ロバーツ卿の貴族院のスピーチを手伝ったが、彼らの親密な関係はリテルトン将軍や、そして恐らくジョン・フレンチ卿とフォースター陸軍大臣の非難を引き起こした。リテルトン将軍との関係は、嫉妬やレピントン中佐の影響によって1905~1906年には、更に緊張するようになった。ヘンリーは、1906年1月の総選挙で与党の保守党が過半数に到達しないと予想したが、彼がうんざりしたのは、「反逆者」の ヘンリー・キャンベル=バナマン卿が率いる自由党(伝統的に戦争や海外での冒険に反対)が地滑り的勝利を得たことだった。 1906年5月、トルコがアカバ湾の先端にある古代エジプトの砦を占拠した際に戦闘が発生した。ヘンリーは、ジェームス・グリアスン中将(英語版)(作戦責任者)とリテルトン将軍(全く無能…明らかに危険な愚か者)が、作戦計画を承認したことに気付いたが、その二人の中将と主計総監のいずれからも意見を求められていなかった。1906年8月19日、レピントン中佐はイーシャー卿に手紙を書き、「ヘンリーは『興味をそそる詐欺師』、『昇る恒星を崇拝することが唯一の才能である低級策士であり、その才能は彼を知る者達によってより下品な言葉で表現されていた。』」と伝えている。1906年9月12日、陸軍指令第233号は、最終的に参謀本部が教育と訓練について助言し、また作戦を立案するよう定めた(ヘンリーは1905年の後半には陸軍指令をドラフトしていたが、参謀将校を任命するのは参謀本部総長か(ヘンリーが支持)、11人選定委員会かによる論争によって頓挫していた)。
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