イギリス委任統治領パレスチナと反シオニズム
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「反ユダヤ主義」の記事における「イギリス委任統治領パレスチナと反シオニズム」の解説
詳細は「イギリス委任統治領パレスチナ」および「パレスチナ問題」を参照 イギリス帝国は第一次世界大戦の中東戦域でオスマン帝国に勝利すると、パレスチナを占領した。このパレスチナ作戦には、シオニストのゼエヴ・ジャボチンスキーも協力した。 第一次世界大戦中の1916年5月9日にイギリス、フランス、ロシアはサイクス・ピコ協定を締結し、オスマン帝国領の分割とパレスティナの国際管理化を定めた。5月16日にはデビッド・ロイド・ジョージ首相はパレスチナの偉大さを取り戻すとして、パレスチナをイギリス委任統治領とした。サイクス・ピコ協定の原案を作成したマーク・サイクスは反ユダヤ主義であったが、シオニズムを支持した。その後ロシア帝国は革命で解体し、イギリスが現イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、イラクを、フランスはレバノンとシリアを委任統治した。イギリスのパレスチナ政策については各国で反発があった。 1917年11月2日には外務大臣アーサー・バルフォアがユダヤ系貴族院議員ウォルター・ロスチャイルドに対してシオニズム支持を表明し、パレスティナへのユダヤ人入植を許可した(バルフォア宣言)。バルフォアは、キリスト教はユダヤ教に借財があると考えていた。 フランスでは、ユダヤ系フランス人のジョゼフ・レナックが1917年4月にイギリス軍がガザを占領するとガザ地区でのフランスの権利を強調するとともにシオニズムを「考古学的夢想」と称した。また1919年のパリ平和会議で、世界イスラリエット連名会長のシルヴァン・レヴィは、近東にボリシェビキ的アナーキズムの危険が迫っているし、西洋諸国ではユダヤ人の二重国籍問題があるのに対して、パレスチナのユダヤ人だけに特権と例外的状況を要求するのは容認できない、自分の国で市民権を行使している者が他国でも同じように権利を行使するように説きすすめることは由々しき前例になると批判した。モーラスは、パレスチナをユダヤ人に与えたのは、ロイド・ジョージ英首相ではなく、ブリアンフランス首相であり、ブリアン首相は十月革命ももたらしたと1922年1月に述べた。 カトリック側も反発し、教皇ベネディクトゥス15世は、先人のキリスト教徒たちが異教徒の軛から解き放つ努力をしてきた土地をユダヤ人に提供することに怒りを表明した。『チヴィルタ・カットーリカ』紙は聖地が「神殺しの民」「キリスト教文明の敵」の手に落ちようとしていると報じた。ローマ・カトリックにとってシオニストのユダヤ人とプロテスタントのイギリス人は種類の違う「異教徒」であった。フランスのカトリック司祭エルネスト・ジュアンは『シオン議定書』を紹介し、パレスチナがフランスからイギリスの手に渡り、ユダヤ人の手に渡ろうとしていることは背信行為であると述べた。ジュアン司祭の協力者オリコストはエルサレムはユダヤ人による世界征服の要塞となるとした。『ドキュメンタシオン・カトリック』紙はユダヤ人は王国を再建しようとしているとし、ユダヤ教の政治的支配に対抗してキリスト教徒はイスラム教徒と連帯するべきだと主張した。また同紙は『シオン賢者の議定書』の信憑性は保証すると紹介した。ポリアコフは、反シオニズムは1948年の中東戦争以降のものと受け止められることが多いが、このように第一次世界大戦直後からフランスの反シオニズムは存在していたと指摘している。 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、パレスチナが東方進出の足がかりにもなることから、シオニズム運動支援を公言したが、裏ではドイツからユダヤ人を送り出す意図もあった。1918年11月27日に「バイエルン急報」は、ドイツに勝利したのは、フランスでもイギリスでもアメリカでもなく、ユダヤ人だと主張した。 第一次世界大戦の賠償を決定する1921年2月のロンドン会議では、パレスチナ問題についてフランスのジュール・カンボンは、聖地エルサレムは15世紀以来フランスの手中にあったし、教皇もそのことを承認してきたと述べた。フランス代表フィリップ・ベルトロ(Philippe Berthelot)はシオニストはあたかも自分たちが大国代表団のように振る舞っているが、シオニストの大多数は自称ユダヤ人であり、ユダヤ人の血を宿していないと述べた。 1922年7月24日には国際連盟でイギリス委任統治領パレスチナが承認された。高等弁務官にはユダヤ人で1931年に自由党党首にもなったハーバート・サミュエルが就いた。 第一次大戦で敗戦したオスマン帝国は英仏伊ギリシャなどの占領下におかれて解体し、トルコ革命を経て1922年にトルコ共和国となった。1923年のローザンヌ条約でトルコは元オスマン帝国領を放棄して、イギリスとフランスによる中東分割が正式に認められた。その後、アラブ人・パレスチナ人による反ユダヤ人暴動が度々発生し、1929年8月の嘆きの壁事件ではユダヤ人・アラブ人双方が100名以上が犠牲となった。 1936年、世界ユダヤ人会議が結成された。同年、パレスチナ・アラブ大蜂起(パレスチナ独立戦争)が始まり、1939年まで続いた。この大蜂起ではイギリス軍の報復によってアラブ人の犠牲者がユダヤ人、イギリス人よりも上回った。 1941年11月28日、反シオニストのアラブ人指導者アミーン・フサイニーがヒトラーと会見し「ドイツとアラブはイギリス人、ユダヤ人、共産主義者という共通の敵がいる」と述べた。パレスチナ問題は第二次世界大戦後も中東戦争などをもたらしていった。
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