イギリス委任統治への反対活動
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「メナヘム・ベギン」の記事における「イギリス委任統治への反対活動」の解説
ベギンはイギリスの植民地主義に迎合しようとするダヴィド・ベン=グリオンらの姿勢に対し激しく批判的な人物として、また独立の手段としてイギリスに対するゲリラ行為を主張する人物として早くから名を上げていた。 イルグンに参加したベギンは、ユダヤ人国家の建設を認めたバルフォア宣言とそれと矛盾するマクドナルド白書(White Paper of 1939)の例を引き合いに出し、パレスチナからイギリスの軍隊を追い出し、影響力をなくすことを決意する。そしてベギンは公式な発表として反乱を宣言し、イギリスに対するテロ活動が始まった。 1945年から46年の数ヶ月の間、イルグンの行動はハガナーの管理下に置かれる枠組みで合意がなされた。しかしこの体制はベギン率いるイルグンによるエルサレムのキング・ダヴィデ・ホテル爆破事件で形骸化してしまう。ホテルにはイギリスの軍司令部を始め多くの情報機関が入っていた。この爆破が行われる少し前、イルグンはホテルに対し、中にいる全員をすぐに避難させるよう声明を出していた。しかしこの声明を受けたイギリス人はこれを無視した上、従業員に対して外に出ることを禁止したという。 この爆発ではイギリス軍人や役人だけでなくアラブ人やユダヤ人の民間人も含め合計91人の死者が出た。イルグンはさらに、アッコの受刑者の脱走を助けた(Acre Prison break)のみならず、イギリスがユダヤ人受刑者を処刑したことに対する報復として二人のイギリス人軍曹を誘拐し、ネタニヤの近くに吊るすという行為を行う(The Sergeants affair)。これによりユダヤ人の処刑は中止されたものの、イルグンのテロを鎮圧するためにさらに多くの軍人が動員されることとなった。 ベギンはラビに変装するなどして当局の目から逃れ続けた。MI5は、パレスチナ当局の長官の殺害を予告したベギンに対しついに、「この者を捕らえた者に10000ポンドの賞金を与える、ただし、生死は問わず。」という賞金首をかけた。 パレスチナにおけるイシューブ(ユダヤ共同体)であるユダヤ暫定政府を率いるベン=グリオンはイルグンの行為とその独立計画を批判し「ユダヤ人民の敵」とまで評した。1944年と1947年にハガナーはイルグンのメンバーを捕らえ、イギリス当局に引き渡した。この件でベギンはユダヤ人同士の衝突を避けるため暴力的な行為は抑えるよう部下に促した。1947年11月、国際連合はパレスチナの分割統治案である国連決議181号(United Nations Partition Plan for Palestine)を採択し、これにより1948年5月にイギリスはパレスチナからの完全撤退を決めた。
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