イギリス対インディアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)
「インディアン戦争」の記事における「イギリス対インディアン」の解説
イギリスは1763年にフランス領アメリカを獲得すると、1763年宣言を発してアパラチア山脈より西への白人の入植を禁じた。これは白人入植者とインディアンとの抗争を恐れたことが強い動機となって発せられたものであった。しかし、それまでフランスと同盟していたインディアン部族がポンティアック酋長の呼びかけに応じて同盟を結び、ポンティアック戦争と呼ばれる反乱を起こした。この戦争に加わったのは五大湖、オハイオ領土、イリノイ郡と広範な地域に及ぶ多くの部族だった。この戦争は、それまで部族それぞれで動くことの多かったインディアンたちが、多くの部族が共同して反抗する可能性を実現した一つの事例となった。 1763年宣言は、実質的にはポンティアック戦争の開戦後に発せられ、戦争を終了させる条約の中でも交渉材料として使われた。しかし、植民地の白人の西方領土解放要求を抑えることはできず、新たなインディアンとの抗争の火種となった上に、植民地の白人の不満も増幅させ、アメリカ独立戦争の原因の一つになった。そのような中で1773年のダンモアの戦争が起こった。オハイオ川の南まで侵入して来た入植者をショーニー族やミンゴ族インディアンが襲ったことに端を発し、バージニア知事のダンモア卿が軍を発して鎮めるという結果に終わったが、この戦いを境に、イギリス対インディアンという戦いの構図は、登場人物は同じだがアメリカの植民地人対インディアンという構図に変わっていった。
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