アメリカにおける戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:31 UTC 版)
翌日には競走の合間を利用して観客の前で400メートルほどのデモンストレーション走行が行われた。これは保田の技術をアピールする場ともなり、この後に保田は現地のジョッキーライセンスを取得し、ハクチカラの出走時に騎乗することが可能となった。ハクチカラ自身は、アメリカの飼料の栄養価が日本のものより高いことから、給養量を減らされたことによる空腹感に苛ついた様子を見せ、寝わらを食べてしまう行動が見られた。またハリウッドパークの軟らかい馬場にフォームを崩し、日本では履いていなかったスパイク蹄鉄も負担となり骨膜炎の症状が出て調教は思うように進まなかった。 7月2日、アローワンス競走(一般戦)でアメリカでの初戦を迎えたが、道中の中団から直線入り口ですでに最後方というレースで、1着馬から15馬身離された最下位9着と大敗。2戦目も同じく最下位9着に敗れた。この結果、最大目標としていたハリウッドゴールドカップを断念し、次走にはゴールドカップの後に臨む予定となっていたサンセットハンデキャップが選ばれた。この競走の前には馬主の西が現地に入ったが、ハクチカラの様子を見て「体も太いし、動作も心なしか鈍い。カリフォルニアぼけしているんじゃないか」と話した。競走を前にして保田と石田が馬場を歩いたところ、コースの外寄りに散水車の轍と見られる非常に硬い箇所を発見、現地のトップ騎手であるウィリー・シューメーカーがレースで外目を通る様子もあったことから、ここを狙って走らせることとし、また西の指示により、後方待機からの直線勝負に賭けることも決まった。当日はゴールドカップの優勝馬ギャラントマンより10kg軽い負担重量に恵まれ、6頭立ての4番手で最後の直線に入ると、伸び脚を見せて3番手の馬に追いすがり、ハナ差まで迫って入線。4着となり、初めて賞金1万ドルを獲得した。勝ったギャラントマンからは10馬身離されていたが、西は周囲のアメリカ人から盛んに祝福され、翌日の現地新聞はギャラントマンよりもハクチカラに大きな紙面を割き、その健闘を称えた。 当初アメリカ遠征はこれで終了する予定であったが、ハクチカラを受け入れていたボブ・ウィラーが、いましばらくアメリカに滞在させればハクチカラは現地の競馬に対応できるようになるとして、デルマー競馬場へ転戦させることを提案する。西もこれを承諾し、ハクチカラの滞在続行が決定。これに伴い調教管理もウィラーに任せられ、保田は騎手として携わることになった。デルマーでは2戦を走りともに6着。ここで尾形が保田に帰国を促し、保田はハクチカラを残して先に帰国した。騎手がエディ・アーキャロに変わった6戦目、アメリカで初めて芝コースへの出走となったトーナメントオブロージズ賞で2着。この後好走が続き、3着、2着、5着、4着と上位入線を繰り返した。 そして11戦目、レイモンド・ヨーク(Raymond York)が騎乗したワシントンバースデーハンデキャップ(現在のサンルイスオビスポハンデキャップ、San Luis Obispo Handicap)では、16頭立て15番人気という評価ながら、前半800メートルを過ぎる辺りで先頭に立つと、そのままゴールまで逃げきって日本競馬史上初となるアメリカ競馬での勝利を挙げた。11.5kgもの負担重量差や、相手に故障のアクシデントがあったとはいえ、当時の世界賞金記録を持っていたラウンドテーブルを破ってのものであり、日本の新聞社は写真入りの記事でハクチカラの勝利を伝えた。2着はアルゼンチンの馬で、その後アメリカでサンマルコハンデキャップなどに勝ったアニサド。3着はイギリスのオータムブリーダーズ2歳ステークスを勝ったアオランギ、4着はセントルイスダービーやオマハGC、タンフォランHに勝ったキングカナスタであった。 ハンデに関しては、ラウンドテーブルだけが134ポンドと飛び抜けて重く、そのほかの出走馬は104~115ポンド(例えば同年のサンルイレイSに勝ったインファントリーは110ポンドであった)とハクチカラ(109ポンド)だけが軽いわけではなかった。 当時はグレード制導入前であり、ワシントンバースデーハンデキャップの位置づけには議論がある。しかしながら1着賞金が5万ドルもあり、ケンタッキーダービーの1着賞金が11万9650ドルであったことを考えれば高賞金のレースである。なお、この1レースの賞金だけで、ハクチカラが日本で稼いだ総賞金を超えてしまった。 この勝利について、尾形藤吉は著書の中で「ハンデも軽かったが、遠征するからには、少なくとも半年前に行って育成調教する必要があるということだろう」と感想を述べている。 その後は6戦したが、最下位かブービーが続き引退。海外での成績は17戦1勝であった。日米の通算成績は49戦21勝。これは歴代日本ダービー馬の最多出走記録である。このあと、日本生産馬としては2002年のサンデーブレイク、日本調教馬としては2005年のシーザリオまで、アメリカの重賞を勝つことはなかった。
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